逃げ水-16-

急に立ち止まったハヤテに、ゲンマは振り返った。
その視線はある一点へと向けられている。ゲンマの位置からはいったい彼が何を注視しているのかまでは分からなかったが。


「どうした?」
ゲンマの問いにハヤテは少し困ったような視線を向けた。そして、血のにおいがしませんか、と少し自信なさげに問いかけてくる。
言われてはじめてゲンマはうっすらと血のにおいがすることに気づいた。意識しなければ分からないほど薄いそれは、しかし気のせいではない。
顔をしかめたゲンマに、ハヤテは小さく木の根元、ゲンマからは死角になって見えない影のところを指差した。
ハヤテの立っている位置まで引き返したゲンマは、示された位置へと視線を向ける。
少し長めにのびた草の間に、白い小さな手が見えた。
気配は、ない。
いったんハヤテと視線を合わせ、また元の位置へともどす。極力音を立てないよう、ふたりでゆっくりとそちらへ近づいた。
血のにおいがわずかにきつくなり、嫌な予感が頭の片隅をよぎる。おそらくそれはハヤテも同じだろう。
すぐに、草に埋もれるように仰向けに転がっている子供の顔が見えた。その顔には嫌というほど見覚えがある。
なんせ、数日前に言葉を交わしたばかりだ。
顔や首、襟元に所々血のあとが見える。血のにおいは間違いなくここが発生源だ。
微動だにしない子供に、ハヤテが死んでますよね、と何とも不吉なことを言ってくれた。
「……いや、それは困るな。カカシさんのところの子供だぞ」
「ゴホッ……ああ、話には聞いたことが…」
確かにそれは困りますね、と同意を示したハヤテにゲンマはうなずいた。呑気に二人で言葉を交わしているが、いい感じに動揺している。
アカデミーで死体というだけでも問題なのに、くわえて知り合いだ。
一応、駄目元でも脈くらいは確認してみるか、と淡い希望にお互いうなずき合う。
無言で差し出した手は、ハヤテがグーでゲンマがパーだった。
「……ここは年長者がやるべきでは……?」
「や、勝負は勝負だろう」
ゴホゴホと咳き込みながら視線を向けてくるハヤテを、はやく、と急かす。
渋々と膝をついたハヤテが、子供の首筋へと手を伸ばし、その指先が触れるか触れないかといった時だった。
ハヤテののばした腕を、血で赤黒くなった子供の手がつかみ体の位置を入れ替えるように引き寄せる。
とっさのことに体勢を崩したハヤテはそのまま肩から地面へと転がった。
気がつけば、いつの間にか胸の上に馬乗りになった子供がクナイの先を首筋へと当てている。勢いで僅かに皮膚が裂け、血がにじんだ。
空いている方の手で肩を地面へと押さえつけられてうまく身動きが取れないハヤテは、その子供とは思えない力の強さと、見下ろしてくる眼光の鋭さに息をのんだ。
しかしそれも一瞬で、ふっと胸の上から重みが消える。
背後からゲンマに抱えられた子供は、我にかえったのか、先ほどの鋭さは身を潜めていた。
「大丈夫か、ハヤテ」
「……はい」
ゆったりと体を起こしたハヤテを、興味なさそうに無表情で眺めながら、子供は大人しくゲンマに抱えられている。
こうしているとまるで人形のようだ。
ハヤテが完全に立ち上がったところで、ようやく子供は口を開いた。
「……あ、その声はゲンマさんですね?」
「気づくのが遅いよ」
今頃気づいたのか、とわずかにあきれたように目を細めたゲンマが、ようやく子供を地面へと降ろす。
しっかりと自分の足で立った子供は、こうして見ると何故先ほどは死んでいるなどと思ったのか不思議なほど元気そうだ。
「ところで、こんなところで、しかも血だらけでお前さんは何をやってるんだ?」
ゲンマの問いに小さく首を傾げたあと、自分の手のひらを見てようやく怪我をしていたことに思いいたったのか、あ、と小さく少年は声を上げた。
「あー……ちょっとした親切心が大惨事を招いた結果こんなことに……」
「ちょっとした親切心、ねえ」
「はい。ちょっとした親切心……あっ!」
そういえばかくれんぼの途中でした、と自分の状況を思い出したらしい子供に、ゲンマが苦笑を漏らす。
どうも知り合いらしい二人のやり取りをはたで眺めながら、ハヤテは一人薄ら寒いものを感じていた。
静かに痛みを主張する傷が、一瞬の記憶を呼び覚ます。
「まあとりあえず、傷の手当が先だな」
もう出血はとまっているようだが、そのまま放置するわけにはいかないと判断したのか、ゲンマが子供の手をひく。おそらく保健室にでも連れて行くのだろう。
大人しく手を引かれて歩く子供の後ろ姿を見ながら、ハヤテは口をつぐんだ。

まさか、あの瞬間、自分よりも遥かに小さな子供に本気で殺されると思ったなどと、この場で口にすることは出来なかった。


このあと、イルカ先生とカカシ先生に盛大に怒られること間違い無し。