逃げ水-14-

朝の静寂、澄んだ空気。張りつめた糸のような緊張感が好きだった。
毎朝走る習慣がついたのは、ハンターの世界でゼタさんに拾われてからだ。
念能力者として最低限の体力や筋力は、念の使用に耐えるために必要なもの。力を求めるのならばまだまだ足りないが、尚樹は現状に満足していた。
だから、数年前から現状を維持するためのトレーニングはしてもそれ以上のことはしていない。
イルミのように体を張った仕事をしているわけでもなければ、ヒソカのように戦闘に快楽を求めるタイプでもないからだ。
最低限プラスα、そのくらいでちょうどいい。何事も程々に。
いつものようにガイとの早朝のランニングを終えた尚樹は、そっと玄関の戸を押した。
適度な疲労感が心地いい。うっすら汗ばんだ体に、シャワーを浴びるかどうか思考を巡らせる。
だから、気づくのが一瞬遅れた。
目の前に家主がにっこりと笑みを浮かべて仁王立ちしていることに。


ちょっとそこ、すわんなさい、と顔に笑みを貼付けたまま尚樹の足もとを指差すカカシに、尚樹はおとなしく正座した。
何故正座をしたかというと、そんな空気だったからとしか言いようが無い。
明らかに、怒っている。
尚樹は汗ばんだ体のことなど忘れ、思考をフル回転させた。いったい今度は何をやらかしたのかと。
いつも思わぬことで怒られるので、考えても詮無いことではあるのだがそこは人間の性だ。
結局思考を巡らせても原因が思い当たらず、尚樹はおそるおそる視線をあげた。
そのとたんに音がしそうな勢いで目が合い、そらすことも出来ずにカカシの言葉をじっと待つ。
僅かな沈黙のあとに、ゆっくりとカカシが口を開き、尚樹は緊張に身を固くしてカカシの口元に目をやった。
「……こんな早朝にどこに行ってたのかな? 無断で」
心持ち「無断で」のあたりに言葉の刺を感じつつ、尚樹は正直にガイとランニングに行っていたことを告げた。拷問なんてされずとも、そのまなざしだけでゲロッちゃいます。
「なーんで勝手に外に出るかな、お前は」
「う……すみません。カカシ先生起こしちゃ悪いかな、って」
はあ、と尚樹の返事にカカシは盛大なため息をついた。それに尚樹はますます身を小さくさせる。
もう一つため息をついて、カカシは自身もしゃがみ込み尚樹と視線を近くした。
「いつからなの、無断外出は」
「……えと、割とはじめからっていうか」
もう本当にごめんなさい、と頭を下げた尚樹に、それは土下座じゃなくていってらっしゃいませのポーズだと、カカシは内心で突っ込んだ。
まだ朝も早いというのに3度目のため息をついて床に座り込んだままの尚樹を抱え上げる。
「お前ね、何度も言うけど知らない人についていっちゃ駄目でしょ」
尚樹にとってはガイは一方的に知っているので知らない人ではないのだが、もちろんカカシがそんなことを知る由はない。
一応、尚樹なりに知っている人にしかついていってないのだ、本当は。
「最初は表で軽く体動かす程度だったんですけど、ガイ先生が一緒に走らないかって誘ってくれたので、つい」
「ついじゃないでしょーが……まったく。俺はお前の将来が心配だよ」
「あ、でも悪い人にはついていかないんですよ?」
そういう問題じゃない、とカカシはげんなりした。だいたい、いい人と悪い人の区別も怪しいものだ。
いったいどうしたらこの子はもう少し警戒心を持ってくれるのかと内心で頭を抱えた。
「今度、ガイ先生に木の葉旋風を見せてもらう約束をしたんです」
「……良かったね」
のれんに腕押し、ぬかに釘。きっとこういうときに使うんだろうな、と身を以て先人たちの言葉を実感した瞬間だった。
薄暗い室内にカーテンの隙間から朝日が差し込む。その角度から、今日がまだ始まったばかりだということを再確認して、カカシは果てしない疲労感を覚えた。
「朝ご飯の準備、しますね」
「……ああ」
腕の中からおろしてやると、尚樹は台所へと姿を消してしまう。
それを見送って、カカシは居間のカーテンをあけた。一気に室内が明るくなる。
その光に、わずかに目をすがめた。
細かなホコリに光が反射してキラキラとまっているのがよく見える。
今日一日きれいに晴れそうな空が、カカシの疲れを助長させた。

動き回る小さな足音、食器のぶつかり合う音。時折耳に届くそれに、生活音という言葉が脳裏に浮かんだ。
長いこと縁のなかった言葉だ。
いつも自分が寝ている間に、尚樹がこんなに家の中を動き回っていたのかと、その細かな音に集中する。
「……まいったね」
まるで、普通の家庭みたいで、困る。こんな殺風景な部屋で暖かさを感じるなんて、人の気配に落ち着くなんて、どうかしている。
洗濯物を抱えて部屋へと戻ってきた尚樹が窓を開けて、わずかに風が部屋の中へと流れ込み、カーテンを揺らした。
「いつもより早いですけど、もうご飯食べますか?」
「……いや、いつもの時間でいいよ」
ベランダへ出て少ない洗濯物を干す尚樹の後ろ姿を見ながら、まるっきり主婦だなあ、と苦笑が漏れた。


カカシ先生が無駄に苦労してそうな感じ。