逃げ水-10-

彼を見たのは、これで2度目。
一度目は臆することなくイビキと対峙して里への残留を認められたとき。
感情をうかがわせない無機質な声音と渇いた瞳が印象的だった。
なんだかんだといいながらカカシがずっと面倒を見ているらしく、アスマにはそのことがひどく意外だった。
しかも、毎日アカデミーまで迎えにいっているというのだから、気にならないわけがない。
聞いたところでは成績はあまり芳しくないらしいが。
こうしてわざわざ放課後のアカデミーへと足を運ぶほどには気になる存在だ。
校庭の隅に見える小さい後ろ姿。
とぎれとぎれに聞こえてくる声は子供独特の高いもので、聞いたことのない歌だった。
ぶちぶちと草をむしりながら歌っているそれは、聞いたことのないものでも明らかに音が外れていると分かる。
半ば無意識であったが、気配を消したまま近づいたアスマに気づいたのだろう、少年の声と動きが止まる。
2メートルくらいまで近づいたところで、人形のように無表情な顔が振り返った。

特に驚いた様子も警戒する様子も見せない子供に、アスマは内心首を傾げた。
さきほど敏感に気配を感じ取り、的確な間合いで振り向いた人物と同一とは思えないほど、無防備。
しばらくアスマを見つめた子供は、よいしょ、と立ち上がりようやく体をこちらへ向けた。
「こんにちは」
「……こんにちは」
わずかな沈黙が2人の間を通り抜ける。沈黙と同時に横切った風に、少年がぎゅっと目をつむる。
おそるおそる開かれた瞳が、再びアスマへと向けられた。
「えっと……水沢尚樹です?」
「ああ、猿飛アスマだ」
「以前お会いしたことありますよね?」
首をかしげた尚樹に、覚えていたのかと少しだけ驚いた。あの状況でもちゃんと周りを把握していたらしい。
初めて会ったときも思ったが、なかなか肝が据わっているようだ。
「ああ、よく覚えてたな……それより、どうしてこんなところで草抜きなんてしてるんだ?」
アスマの質問に心持ち肩を落とした尚樹は、小さな声で「罰掃除です」と答えた。
「罰掃除? そりゃまた……いったい何やらかしたんだ?」
「えっと、その……授業中に、クラスの子と喧嘩してしまったというか、怒らせてしまったというか」
ばつが悪そうにしどろもどろな説明をする尚樹の言葉を根気づよく聞く。
さりげなく根掘り葉掘り聞いた結果、ことの顛末を理解したアスマは、おやおや、と頭をかいた。
これは、相手が短気すぎるのか尚樹がのん気すぎるのか。おそらく両方だろう。
「尚樹は、自分と同じくらいの年の子に思いっきり手加減されたら悔しくないのか?」
「いえ、何故ですか?」
むしろ手加減してくれた方がありがたいです、と真顔で返す尚樹に、思わず吸っていた煙草でむせそうになる。
何故そんな質問をするのか分からない、とばかりに首を傾げている尚樹に、どうして相手が怒ったかを説明するのは無理だな、と早々にあきらめた。
「というかそもそも、お前さんどうして手加減なんかしたんだ?」
普通尚樹くらいの年頃は、手加減なんて考えず勝ちにいこうとするはずだ。
相手を怒らせるくらいだから、おそらくあからさまに手加減をしたのだろうが、そんなことをする理由が分からない。
しかし尚樹の方は尚樹の方で、アスマの質問の意図が分からないようで「アスマさんはしないんですか?」と逆に質問が返って来た。
「アスマさんは、例えば生徒さんとかと手合わせするときに手加減したりしないんですか?」
「そりゃあ……」
確かに、相手が生徒であればもちろん手加減はする。しかしそれは明らかな力の差があるからだ。
そこまで考えてふと、一つの考えが頭をよぎる。
「坊主、体術は得意か?」
「うーん……得意というほどではないです。人並みには動けると思いますけど、接近戦は苦手ですし」
もしかして、体術が得意で周りの子供より明らかに実力が上なのかもしれない、というアスマの仮説は一瞬で崩れ去った。
「……なんで手加減したんだ?」
お手上げとばかりに先ほどと同じ質問を繰り返したアスマに、しばらく考えた後、ようやく尚樹が口を開く。
「人間の体って、意外ともろいから……」
どの程度なら相手を殺さなくてすむのか分かりません、と言った尚樹にアスマは眉根を寄せた。
それではまるで、本気を出せば簡単に相手を殺せてしまうと言っているかのようだ。
あるいは殺してしまったことがあるのか。
はじめの頃カカシが尚樹を必要以上に警戒していたのを思い出す。
「……心配しなくても、そう簡単に人間は死なないぞ。何なら、試してみるか?」
「アスマさんなら、そう簡単に殺しちゃうことはないと思いますけど……まかり間違って怪我させちゃったら俺は崖から身投げしないといけないと思います」

真剣な表情で放たれた言葉に、アスマは不覚にも吹き出した。


「なんでアスマがいるの」
「カカシ先生!」
お迎えがきたとばかりにカカシに走りよる小さな背中を見つめながら、なんて不似合いな光景なんだと失礼なことを考えた。
わざわざ迎えに来たらしいカカシは、駆け寄って来た尚樹の頭をなでている。
「よう、カカシ。ちょっと通りがかってな」
疑わしげな視線を向けるカカシに、アスマはどうどうと嘘をついた。
空気がしらけようと知ったこっちゃない。
そんなアスマにため息をついてカカシがあきらめたように尚樹へと視線を戻す。
「イルカ先生に怒られたんだって?」
「……はい」
ふたたびしゅんと肩を落とす尚樹を慰めるようにカカシがポンポンとその頭をなでた。
「父親業が板について来たねぇ」
「ちょっと……なに、その父親業ってのは」
心底嫌そうな表情を浮かべたカカシに、アスマはにやりとからかうような笑みを浮かべる。
大人たちのやり取りにはあまり興味がないのか、尚樹は時折吹く風に目をつむっては、少しでも風のあたらない方へと移動した。
ちょろちょろとカカシの周りを動き回る尚樹の姿は、タバコの煙とともに嫌でも視界に入る。
「……おいカカシ、お前んとこのガキはさっきから何やってんだ?」
「俺に聞かないでよ。尚樹?」
「うう……なんで二人とも平気なんですか? 砂が目に入って痛いです」
尚樹の訴えにカカシとアスマは顔を見合わせた。
言われてみれば確かに風が強いが、しかしそう必死になって逃げるほどでもない。
首を傾げるアスマをよそにひょいっとカカシが尚樹を抱え上げる。
「背が低いからじゃないの。髪の毛もすごいよ……それより手、どうしたの。血が出てる」
「手? ああ、草抜きしてたから、きっと切れちゃったんですね」
「どうしてお前はそう豪快なの。どうせよく見ずにぶちぶち抜いたんでしょ」
「はい。なんか楽しくなっちゃって……」
どこからどう見ても親子の会話な訳だが、果たしてカカシは気づいているのか気づいていないのか。
きっと気づいていないんだろうとアスマは結論した。
それにしても、カカシが子煩悩タイプだったは驚きだ。なんだかんだ言いつつ世話を焼くタイプだな、と紫煙の向こうに二人のやり取りを眺める。
いつの間にかずいぶんと日が落ちていて、影が長くのびていた。
「アスマ、俺はもう帰るよ?」
「ん? ああ、そうだな。またな、坊主」
軽く手を振ったアスマに、カカシに抱えられたままの尚樹が手をふりかえす。
二人の姿が見えなくなるで見送ったアスマは、短くなったタバコを消し、新しいものに火をつけた。
風に紫煙が流されていく。
それを無意識に目で追いながら先ほどの光景を思い出し、口元に小さく笑みを浮かべた。


「あ、カカシ先生、今日の夕飯は魚にしましょう」
「……どうせ、雲の形が魚に似てたとかそういう理由なんでしょ」
「おいしそうだったんですよ?」
当たりか。
最近尚樹の思考をだいぶ理解できて来たカカシだった。