逃げ水-8-

アカデミーへ足を運んだカカシが見たものは、くったりとベッドの上に眠る子供だった。
心無しか頬は上気し、息も荒い。
朝アカデミーへと送り届けたときは、こんなではなかったはず。いや、カカシが気づいていなかっただけで、本当は何かその兆候があったのかもしれない。
額に手のひらを当てると、確かに高い体温。
「午前中は変わりなかったんですが……」
担任であるイルカも気づくのが遅れたようで、申し訳なさそうに顔を歪めている。
無理もない。
標準状態で尚樹にはほとんど表情がない。意図的に押さえているのか、生まれつきそうなのかは分からないが。
「お世話をかけました。つれて帰りますね」
「いえ、こちらこそすみません」
抱え上げた体はあたたかく、そして軽い。そういえば、こうして尚樹を抱え上げるのは、これで2回目だ。
1回目は雨の中尚樹を拾ったとき。
あのときは、冷たかった。

家まで連れ帰り、いつもどおりソファに寝かせようとして少し考える。
カカシの足下ではいつもは絶対に近寄ってこない黒猫が気遣わしげな瞳を向けている。
「大丈夫だよ、ちょっと熱があるだけだから」
実際に通じるかどうかは分からないが、尚樹がいつもしているようにカカシは夜一に声をかけた。
そして尚樹を自分のベッドまで運ぶ。
前髪を払ってやると、どうやらだんだんと汗をかき始めたようでしっとりとぬれていた。
とりあえず、このまま寝かせるわけにもいかないので着替えとタオルをとってくる。
「尚樹、ちょっと起きて。そのまんまだと寝苦しいでしょ」
カカシの声に、意外にも尚樹はすぐに目を覚ました。潤んだ瞳が、彼の体調の悪さを物語っている。
「カカシ先生?」
「尚樹、分かる? もう家に帰って来たんだよ。寝る前に体ふいて着替えるよ」
意識はしっかりしているようで、カカシの言葉に上半身を起こしてシャツのボタンに手をかけるが、うまく力が入らないようで、しばらく格闘した後あきらめたように尚樹が視線をあげた。
無言の圧力にカカシはため息をついて尚樹の服を脱がし、ついでにタオルで汗を拭いてやる。
「はい、尚樹、ばんざーい」
ばんざーいと覇気がないながらも素直に両手を上げた尚樹に頭からパジャマを着せる。
これで一仕事完了だ。
あとは水分と薬……その前に食事か。
「尚樹、何か食べれる?」
「……」
無言でこくりとうなずいた尚樹に、これはどんどん状態が悪化してないか、と顔を覗き込む。
先ほどよりもうつろな瞳がカカシに向けられ、力なく落とされるまぶたが時々その視線を遮った。
汗はもう引き、顔色は青白い。
「尚樹、ほんとに食べれるの?」
さきほどと同じようにこくりとうなずいた尚樹に、カカシは訳もなく腹が立った。
こんな、座っているのがやっとという状態でも、本当のことを言わない。
もしカカシが大丈夫かと訪ねれば、尚樹はきっと首を縦に振るのだろう。
思い返せば、体調が悪いなら悪いと、なぜ朝のうちに言わないのか。意識朦朧としている尚樹に言うべきことではないと分かっていたが、それは意図するよりもはやくカカシの口から滑りでて、尚樹をせめた。
「……すみません。すぐ、治します」
「そうじゃないでしょ、そういうことを言ってるんじゃないよ」
カカシのせめるような口調に、尚樹がその小さな手に力を入れて、今度ははっきりとカカシに視線を合わせる。
潤んだ漆黒の瞳には、何の感情も浮かんでおらずまるで人形のようだった。
それは、はじめの頃よくしていたもので、最近は見なかった瞳。
昔は何とも思わなかったそれが、今見るとひどく寒々しくて痛ましい。
ほの暗い部屋で、わずかな光がその瞳を反射して浮き立たせた。
「……カカシ先生?」
急に頭を抱き寄せたカカシに、尚樹が遅れて反応を返す。熱があるせいか、元々かは分からないが、特に抵抗することもなく体重を預けてくる尚樹に、カカシの中の苛つきにも似た焦燥感がゆっくりと引いていく。
しばらくその小さな頭を撫でながら、カカシは尚樹が自分の家に来てからのことを思い出していた。
尚樹のことを危険視して冷たくあしらっていたのは覚えているし、今だってそう多くの言葉を交わすわけではない。
それでも、今は自分が保護者なのだから少しは頼ってくれてもいいのに。
そこまで考えて、ようやく自分が何に腹を立てていたのかに気づき、苦笑がもれた。
これじゃあ、三代目の思惑通りじゃないか、と。

抱き寄せていた頭をはなし、カカシは尚樹と視線を合わせた。
「尚樹、お前はまだ子供なんだからもっと甘えてもいいんだよ」
自分で言っていて驚愕ものの台詞だが、情が移ってしまったのだから仕方がない。
カカシの言葉に、尚樹が少し困ったような曖昧な笑みを浮かべ、それが今までで見たどの表情よりも大人びていて、今の状況に似つかわしくなかった。
「カカシ先生は子供、嫌いだと思ってましたよ」
「まあ、基本はね。でもお前は聞き分けが良すぎだよ。もう少し人を頼ることを覚えた方かいい」
「……自分では、そんなつもり全然ないんですけどね。いつだって誰かに助けてもらって、生き延びて来た。これ以上は、もらい過ぎだなって、思うんですよ」
特に、カカシ先生にはお世話になってばっかりです、と少し息苦しそうに話す尚樹の表情はとても穏やかで、そして何かをあきらめているようにも見えて、はじめてカカシが彼を子供として扱おうとしているときに、今までで一番大人な態度を返されてやるせない気分になった。
どうやら、この子供を手なずけるにはもう少し時間が必要なようだ。
「今度からは、調子が悪かったらちゃんと言いなさいね」
「……はい、すみませんでした」
まだあまりカカシの言葉を理解できていないらしい尚樹に苦笑をもらし、もう癖になってしまった動作で、その頭をなでた。


「あ、そういえば俺がここで寝ちゃったらカカシ先生が寝る場所がないですよ?」
「だからそういうのが、無用の心配だって言うの」