逃げ水-7-

教室に忘れ物をしたことに途中で気付いて、ヒナタはもと来た道を引き返した。
こういう自分のどんくさいところが、時々どうしようもなく嫌になる。
急ごうと駆け足でアカデミーに戻ると、教室の近く、木陰にひとりぽつんと座っているクラスメートを見つけた。
まともに話したことはもしかしたら1度もないかもしれない。
それくらい、教室では目立たない子だ。
でもきっと、向こうも自分のことをそう思っているのだろう。
何気なく視線を向けただけだったのに、下を向いていた彼が顔を上げ、真っ直ぐにヒナタを見た。
しっかりと目が合ったのに素通りするわけにもいかず、ヒナタはそのクラスメートに近づいて声をかける。
「こ…こんにちは、尚樹君。まだ学校に残ってたんだね」
「うん、お迎えが来るのを待ってるんだ」
尚樹の膝で丸くなっていた黒猫が少しだけ尻尾を揺らした。


なんとなく、ひとりで待っているのもさびいしいだろうと、ヒナタは尚樹の隣に腰を下ろした。
後から思えば、人見知りする自分にしては、大胆な行動だったと思う。
でもそのときはなんだか、すんなりと出来てしまったのだ。
「ヒナタは、……あ、ヒナタって呼んでいい?」
「うん」
「ヒナタは、帰ったんじゃなかったの?」
「うん。ちょっと忘れ物しちゃって…もう、嫌になるくらいどんくさいの、私」
ところどころ、茂る木の葉の間からそそぐ光が眩しかった。
その光にヒナタは目を細める。
生徒のいないアカデミーはいつもとは比べ物にならないくらい静かで、時間が止まっているようだった。
冷たい風が、2人の髪をさらってゆく。
ヒナタの言葉に、尚樹は言葉を返さなかった。
ヒナタ自身、馬鹿なことを言ってしまったとすぐに後悔していたから、それ以上言葉を続けることも出来ずに口をつぐむ。
ときおり、草を千切るような音が尚樹のほうから聞こえたけれど、怖くてそちらを向くことすら出来なかった。
しばらく草を摘む音を聞いていると、尚樹が唐突に口を開いた。
「俺さ、いつもお迎えが来るまでアカデミーで待ってなきゃいけないんだよ」
話の意図は分からなかったが、気まずい沈黙が破られたことに安堵して、ようやくヒナタは尚樹のほうを見た。
その手には白い花が何本か握られている。
先ほどの草を千切るような音は、シロツメクサを摘む音だったらしい。
最初の2本を軸に、摘んだ花を規則正しく巻きつけていく。
ちらちらと動く花が気になるのか、時折猫が前足でそれをはじこうとし、それを自然な動作で尚樹が回避していた。
器用に花冠を作っていく手元を見つめていたら、それに気付いた彼が、視線をヒナタに向け、そしてヒナタの視線の先を追う様に再び手元に戻す。
「ああ、これ? ……妹がいたからね」
昔よく作らされた、という尚樹の横顔は無表情だったけれども、その口調はどこか懐かしそうで、そしてわけもなくヒナタを寂しくさせた。
「ああそれで……なんで俺が迎えが来るまで待ってなきゃいけないかって言うと、俺がどんくさいからなんだよね」
「え……」
「ひとりで家に帰れないの。おかしいだろ? 毎日通ってるのに」
絶対道に迷うんだ、とため息をつく彼の横顔は、いつもと変わらない表情だったけれど、自分を慰めようとしていることが分かって、ヒナタは知らず笑みを漏らした。
「じゃあ、私達どんくさいもの同士だね」
「うん」
相変わらず無表情だけれど、見合わせた瞳が優しくて、きっとこれが彼にとっての「笑顔」なのだろうとヒナタは理解した。
先ほどは眩しいと感じた日差しも、冷たいと感じた風も、今はどこか優しい。

「能力の上下だけが人間の価値じゃないよ。
たとえどんくさくても、ヒナタは素直で一生懸命だし、可愛いと思うよ」
かわいい、と真顔で言われて言われたヒナタのほうが恥ずかしくなる。
そして恥ずかしがる自分が余計に恥ずかしかった。
さらりとした口調や態度から、尚樹に他意がないことは分かる。
だから、ここで反応してしまうのは、自意識過剰なのだと、ヒナタは自分に言い聞かせた。
そんなヒナタの頭に、ぽん、と何かが置かれる感触。
俯いていた顔をあげると、尚樹が作ったばかりの花冠をヒナタの頭に置いたのだということが理解できた。
そのままついでのようにぽんぽんとヒナタの頭を撫でた尚樹はなんだかとても年上のようにみえて、同時に自分がひどく幼い子供のように思える。
彼は、こんな人間だったろうか。
いつもおとなしく目立たないクラスメート。ヒナタにとって尚樹はそういう位置付けだった。
どこか、自分に似ているとすら思っていたのに。
新鮮な驚きとともに尚樹を見つめていると、まだヒナタが落ち込んでいると思ったのか、慰めるように尚樹が口を開いた。
「俺は、ヒナタのこと好きだよ」

……これで照れない人間がいたら見てみたいと、ヒナタはどうしようもなく赤く染まる頬を隠すように俯くしかなかった。


聞いてるこっちが恥ずかしい、と飼い主の膝の上で2人のやり取りを眺めていた夜一はため息をついた。