逃げ水-5-

遅めの夕飯を終え、食器を片し、お風呂に入ったらもう寝る時間だ。…信じがたいことに。
いつもなら風呂から上がっていくばくもしないうちに毛布に包まって寝てしまうのに、その日は違った。
眠たそうにまぶたを時折こすりながら、机の上に開いた教科書を尚樹が凝視する。
そして時折印を組んではまた教科書に眼を落とすという行動を繰り返していた。
向かいに座ってちろりと尚樹の開いているページを見やれば、変化の術。
しかし先ほどから見ている限り尚樹の組んでいる印は変化の術ではない。
訝しく思いながらも、カカシはいちゃいちゃパラダイスに視線を戻した。
ちらちらと視界のお隅で動く指は相変わらず不可解な動きをしている。
気にしない気にしないと心の中で唱えつつ、本に集中した。


ようやく本に集中して来たころ、猫がカカシの足に噛み付いた。
目だけを動かして噛み付いたままカカシを見上げる猫を睨みつける。
「全く…なんなの」
手を伸ばして猫をつかみあげようとすると、するりと身をひるがえして逃げていく。
軽やかに跳躍して机の上に飛び乗った猫を視線で追うと、その向こうに没した子供の頭が見えた。
どうやらこれを知らせたかったらしい。
「もうちょっと優しく知らせてくれても言いと思うけど…こら、起きなさいって」
ゆさゆさと肩をつかんでゆすってやると、のろのろと尚樹が顔を上げた。
「う…?」
「寝るなら寝るで布団で寝なさいって…だいたい、こんな時間まで何やってるの」
「むー…いるかせんせーがへんげのじゅつくらいつかえるようにならないとそつぎょーできませんよって」
「また気の早い話だねー。…ってか、変化の術、出来ないの?」
変化の術といえば、初歩中の初歩だ。特に気にしたこともなかったが、そういえば尚樹の成績については全く知らない。
アカデミーの様子についても聞いたことがなかったし、なにより尚樹自身があまりそういうことを口にすることはなかった。
「へんげのじゅつっていうか…忍術?」
ようやく覚醒してきたらしい尚樹が、結構重要なことを言ってくれる。
忍術、とはまた…。
「全く使えないのか?」
まさか、と思いつつ尋ねると、尚樹はまぶたを擦りながらこくりとうなずいた。
軽く眩暈を覚えた瞬間だった。
「それで練習してたわけ?」
「はい」
でも全然うまくいかないので、もう卒業できなくてもいいかなーって思ったところでした、と微妙に回らない舌で言ってくれちゃう尚樹に、カカシは何度目かわからないため息をついた。
「…ちょっとやってごらん」
のろのろと印をくんで「変化」と唱えた尚樹に、カカシは1ミリの変化も認めることが出来なかった。
「…とりあえず、印が間違ってるよ」
カカシの言葉に特に驚いた風もなく尚樹は教科書に目を落とし、再び印をくむ。
「………印が間違ってるよ」
てんでちぐはぐな印をくむ尚樹に、カカシは先日の迷子騒動を思い出していた。
もしかして、左右の感覚が弱いのか? 
「尚樹、ちょっと立ってごらん」
言われたとおりに椅子からおりて立つ尚樹の後ろに周りこむ。
両腕を後ろから尚樹の前に回して、ゆっくりと印をくんでやった。
「分かる? お前のは左右がちぐはぐなんだよ」
何度も同じ印を組んでやるカカシの動きにあわせて、たどたどしい手つきで尚樹が印をくむ。
それを何度か繰り返し、ようやく正しい印がくめるようになったところで、カカシはまわしていた両腕を下ろした。
顔だけで振り返って見上げてくる尚樹に、今度はチャクラをねって実際に術を使うように促す。
ぼんやりとした顔で、のろのろと印を組んだ尚樹の体から、今までには感じなかったほどのチャクラが一気に膨れ上がってカカシの肌を刺すような感覚すらした。
しかしそれは本当に一瞬で、次の瞬間には何の変化もない尚樹の後姿が目の前に佇んでいる。
本能的にわずかに後退していたカカシは、その先ほどと寸分違わぬ小さな後姿を見つめた。
「…………何に変化するか、決めてからにしなさいね」
「………ですよねー」
「ま、イルカ先生にでもなってみたら?」
「はあ………変化」
先ほどのような感覚はいくらか弱まり、ぽんっとかわいらしい音の後、カカシの前に自分とそう変わらない背丈の男の姿があった。
振り向いた顔は、いくぶんやる気は感じられないものの、何度か見たことのあるうみのイルカにそっくりだ。
「………ちゃんとイルカ先生になってますか?」
図体のでかい大人が、首をかしげて子供の口調で話しかけてくるさまは、なんともいいがたい。
「ま、成功なんじゃない?」
「わーい」
見た目と声からは感じられないが、おそらく本人なりに喜んでいるのだろう。多分。
ただでさえ分かりづらいのに、外見が違うから余計分かりづらい。
「………とりあえず、成功したことだし、今日はもう寝たら?」
まだ世の中の大半の人間は起きているだろうが、尚樹の就寝時間は大幅に過ぎている。
おそらく本人もぎりぎりだろう。
その証拠に先ほどからしきりにまぶたを擦っている。
「………カカシ先生」
飼い猫を抱き上げ、いつものようにソファへと横になろうとしていた尚樹が、困惑したようにカカシを振り返った。
「なに?」
まだ何かあるのかと、ようやく読書にいそしめることを喜んでいたカカシは半眼で視線を尚樹に戻す。
そんなことなどお構いなく、尚樹は心底困ったように口を開いた。
「この体じゃ大きすぎてソファで眠れません」
「…あのね、元に戻ればいいでしょ」
もっともな答えを返すカカシに、自分の大きくなった体を見下ろし、またカカシへと視線を戻した尚樹は、にわかには信じがたいことを口にした。

「………どうやって戻ればいいんですか?」


なんだかんだ言って先生をしてしまうカカシ先生。
きっと彼は面倒見がいいと信じてる。