逃げ水-3-
「イルカ先生さよーならー」
「ああ、さよなら」
賑やかに教室を後にする子供たちを、手を振ってうみのイルカは見送った。
「せんせーさよーならー」
台本の台詞を読むかのような抑揚のなさでかけられた挨拶に、イルカは無言で自分の後ろをすり抜けていく子供の襟首をつかんだ。
「こーら!お前は居残りだって言っただろうが」
「えー…」
「えーじゃない!」
大して残念でもなさそうな不満の声を上げたのは、しばらく前にアカデミーに入ってきた水沢尚樹という少年。
特に目立つ子供ではないが、それがむしろイルカとしては気にかかっていた。
妙に大人しすぎる。
シカマルやサスケのように、子供がどこか背伸びをしているような、そういう感じではない。
小さな子供たちがわいわい騒いでいるのを、大人が微笑ましく見守っているような、そんな感じなのだ。
子供が大人のように振舞っているのではなく、大人が子供のように振舞っている。
そんな気がしてならなかった。
「お前だけだぞ? 分身の術も変化の術も使えないのは!」
「…イルカセンセー、俺に正直忍術は無理だと思うんですよねー…」
「何弱気なこと言ってるんだ、まだまだだろ?」
学力のほうは問題ないのだが、尚樹はいかんせん実技が…。
壊滅的といっても過言ではない。
見ている感じ、チャクラが全く足りないと言う感じではないし、ようはやる気のなさだとイルカは思っている。
「ちゃんとやれば出来るはずだ。とりあえず変化の術から練習だ」
「いいですけど…時間の無駄だと思いますよ?」
「そんな弱気だからいけないんだ! 本気でやれば出来るようになる。やってみなさい」
「…はーい」
しぶしぶというふうに、尚樹が両手を構える。
「変化!」
「印が違う!」
盛大に違う印を組んだ尚樹の後頭部を、思わずはたいた。
いつも無表情だから気付きにくいが、尚樹はよくでたらめな印を組んでいるのだ。
これでは成功するものも成功しない。
はたかれた後頭部をさすりながら、尚樹が教科書を開きながら印をくむ。
「………なんでそれで間違うんだお前は…」
「…あれ?」
「あれ、じゃない。いいか、こうやって…」
目の前でゆっくりと印をくんでやる。
それをまねるように、尚樹もゆっくりと印をくむ…のだが。
「…どーしてそう…」
「…あれ?」
くめばくむほどにはちゃめちゃになっていく尚樹の印をみて、イルカは深い溜息をついた。
「イルカ先生、そんなに落ち込んだら駄目なんですよ?」
「…お前は少しは落ち込め」
「はぁ…、あ、イルカ先生」
「何だ」
「お迎えが来たみたいなので今日はこれで帰りますね」
「あ、こら!」
つかまえようと伸ばした腕をするりとかわして、尚樹が出口へと走り出す。
その手が出口にかかるよりも一瞬速く、戸が引かれて中年の男性が顔を出した。
いつも尚樹を迎えに来る男だ。
理由は知らないが、イルカは尚樹を1人で家に帰さないようと上から言われている。
尚樹は監察対象、らしい。自分の生徒をそういう目で見るのはいささか抵抗があるが、NOというわけにもいかない。
「イルカ先生、さよーなら」
少しだけ振り返って小さく手を振る尚樹に、手を振りかえしてやる。
保護者と思われる男性が軽く頭を下げ、尚樹の手を引いて行ってしまった。
どこにでもいそうな男に見えるが、おそらく監視をしている者なのだろう。
足音を立てない一般人など、そうはいない。
カカシは無言で尚樹の手を引いた。
夕暮れの町に二人の影が伸びる。はたから見れば何の変哲もない親子に見えるだろう。
「カカシ先生、夕飯の買い物していいですか」
「尚樹、名前。外では俺の名前は呼ぶなって言ったでしょ」
「………父さん?」
誰が父さんだ誰が、と思いつつもそれが一番自然なのでぐっとこらえる。
「というか、なんでいつもお迎えに来るときはその格好なんですか? それに、俺もいい年ですから、お迎えなくても帰れますよ?」
「あのね………自分の立場忘れてるようだけど、お前は不審人物で、俺は監察者なの。一人に出来るわけないでしょ」
「だからってアカデミーに預けるのはどうかと思うんですけど…」
「気が合うな、俺もだ」
首をかしげる尚樹にカカシは心からの同意を返した。
尚樹をアカデミーに通わせるのには、カカシも反対したのだ。
しかし、上忍であるカカシにとって、四六時中尚樹を監視するのは不可能。
それでいつの間にかアカデミーに通わせるという話になってしまったのだ。
火影と尚樹の間にどういうやり取りがあったのかは知らないが、カカシの知らない内にいつの間にか妙に親しくなっており、更に意外なことにあのイビキが尚樹に肩入れしているのだ。
それはつまり、実質尚樹はもう不審人物とはみなされていないということで。
カカシも数ヶ月一緒に暮らしていて、尚樹に不審な行動が見られたわけではなかったが、まだ彼らのように尚樹を認めたわけではなかった。
カカシだけしか気付いていないことが、いや、カカシだからこそ気付いたことがある。
ひとつはもちろん、写輪眼。
尚樹は自分の写輪眼のことを知っている。
直接口で言われたわけではないが、尚樹の行動がそれを示していた。
ふたつめは、食事。
尚樹は必ず自分の目の前で食事をより分ける。
毒が入っていないと証明するためだ。
普通の子供が、3度食事に手をつけなかっただけで、相手が異物の混入を警戒していると気付くだろうか。
みっつめは………名前。
尚樹はカカシのことを「先生」と呼ぶ。
他の人は「さん」付けで呼ぶのにだ。
カカシは、尚樹が自分のことを前から知っていると確信していた。
よっつめ。
カカシは尚樹を迎えにいくときわざと気配を消しているし、姿も変えている。
しかし尚樹は必ず自分が姿を現す前にその存在に気付き、初めて迎えにいったときは、姿を変えていたにもかかわらずすぐにカカシだと気付いていた。
カカシにとってそれは些細なこととは思えない。
「先生?」
「何」
「お会計お願いします」
大根が飛び出した袋を抱え、尚樹が振り返る。
なんだかなあ。
はたから見たら仲のよい家族に見えるのだろうか。
店主に金を払って、尚樹の手に余っている荷物を手に取る。
こんな、野菜なんて買って帰るのはいつ振りだろう?
基本的に自炊はしないし、その気になれば食事を作ってくれる女くらいひっかけられる。
「今日はふろふき大根に挑戦です」
「………茹でるだけでしょ、それ」
「明日の朝は大根の味噌汁です。葉っぱがおいしいんですよ」
「……………………」
まるっきり主婦のような尚樹の発言に、カカシはやれやれと肩を落とした。
これではまるで、親子じゃなくて、新婚夫婦だ。
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