ボーダーライン

先ほどから降っていた雨は上がって、空には星がのぞく。そろそろゼタさんはホテルに戻っている頃だろうか。遅くなるから先に寝ていなさい、と言い置いて出て行った保護者ではあるが、尚樹の寝る時間はとっくに過ぎている。
早ければすでにホテルに戻ってメモを見ているだろう。
自分の横をすり抜けて行った鎖に、わずかながらの現実逃避。奥さん、今この人俺に鎖を打とうとしましたよ。しかも断りなく。
唐突に小指から鎖を伸ばしたクラピカに胡乱な視線を向ける。尚樹の記憶違いでなければ、確かあれは心臓に巻きついて命令を遵守させる鎖。小指は指切りの指。間違いない。
垂れ流していたオーラを体に纏わせる。少し重心を落として足の指先に力を入れた。あれに当たるわけにはいかない。
「クラピカ! 何やってんだ!」
突然の暴挙にレオリオが声を荒げる。
味方ではないとはいえ、幻影旅団と関係のある自分を、そのまま捨て置くとは尚樹も思っていなかった。自分の信用のなさが恨めしい。
「……一応言っておくけど、さっきも言った通り俺は蜘蛛の味方というわけではないよ」
「だが敵でもない……そういうことだろう」
ああああ、信用度ゼロ!
再び飛んで来た鎖に、尚樹は手の中にようやく具現化したストップウォッチを押した。滅多に使わない道具は、よく使うものに比べて具現化に時間がかかる。
本当ならどこでもドアでここから逃げてしまってもいいのだが、また絡まれても面倒だ。これは今決着をつけてしまうに限る。
クラピカをどうこうするつもりも、彼の復讐に手出しするつもりもないが、降りかかる火の粉を払うのは当然のこと。
正直、緋の目になれば全属性100%使えるというチート気味な能力に勝てるとは思えないが、今ならまだこちらが優位だと思わせるようにハッタリくらいはかませる。
止まったまま動かないクラピカの後ろに回って、ストップウォッチを再び押すと同時に膝でクラピカの膝を押した。いわゆる、膝カックン。
人間、意外とここには力が入っていないもので、軽い力でも難なく成功する。
肩に手をかけて下に力を込めると勢いも手伝ってクラピカは床に膝をついた。ちょうど良い高さに降りて来たその喉元にベンズナイフを押し当てる。空を切った鎖は再び壁に刺さった。
喉元のナイフにクラピカが短く息を吸うのが手に伝わる。
「……俺としてもこういう不毛な争いは避けたいので、それ、やめてもらえると嬉しいかなぁ、クラピカ」
やめてもらえると嬉しい、という強制力の弱い言葉とは裏腹に、空気は痛いほどに張り詰めていた。
鼓動が耳に直接響くほどに大きく音を立てる。クラピカの脳裏にあの、ゾルディックの試しの門を開いた時の光景が蘇る。
正直、幼い見た目とゆるい空気にクラピカは尚樹を侮っていた。先ほど、クロロが言っていたではないか。尚樹はクラピカより前から念が使える、と。最近これを覚えたばかりの自分よりその扱いに長けているのは間違いない。
する、と首元からあっけなくナイフが引かれて、尚樹が出口に向かって歩き出す。気がつけば飛行船はすでに着地していた。ゆったりとしたいつもの歩調で歩く尚樹は、クラピカに背中を見せることにためらいがないようだった。
そこに明確な実力の差があることは確かだった。
「……ゴン達もついたみたいだよ」
尚樹が窓の外を指差すが、クラピカにはそちらに視線を向ける余裕がない。確かに、目の前の小さい体に恐怖を覚えていた。

外に出ると、標高のせいか強い風が吹いている。
尚樹は人質交換をするクラピカ達を尻目に、先ほどからポケットで震えている携帯を取り出した。
うすうす感づいてはいたが、画面には保護者の名前。ですよね、とうなだれて通話ボタンを押した。
「はい、尚樹です」
「ああ、良かった。繋がったか。野暮用とやらは終わりそうか?」
「多分……すいません、遅くなっちゃって」
「いや、それはいいが……危ないことはないんだろうな?」
「あー……多分。終われば、帰るのはすぐなんですけど……ちょっと巻き込まれたというかとばっちりというか」
あー、心配かけて申し訳ない……。早く帰りたい……切実に。保護者の問いに体がわそわそわと落ち着かない。尚樹とて、日付が変わる前には帰れるだろうと思っていたのだ。時計の針は、もうすぐ零時をさそうとしている。
「迎えに行こうか?」
「ひぃぃ、大丈夫ですぅぅ」
こんな時間にこんな辺鄙な場所まで迎えに来られたらいたたまれないことこの上ない。どうせどこでもドアで一瞬なのだから、保護者の手を煩わせるわけにはいかない。
「それにここどこか俺わかんないですし」
本当に。いったいどこなのここ……。飛行船で連れて来られたので、ただでさえ方向音痴の尚樹にはここがどこだかわかるはずもない。標高が高いので、びゅうびゅうと風が音を立てる。
見渡す限り建物らしい建物もないので、ホテルからは随分離れているに違いない。
「たぶんそろそろクラピカも気がすむと思うんで、はい……」
尚樹、とゴン達に名前を呼ばれて、慌てて通話を終了した。このまま話していては本当に迎えに来てしまいそうな勢いだ。
遮るものがない荒野は月明かりと飛行船から漏れる明かりで意外と明るい。
「あ、終わった?」
「終わった? じゃねーよ! なんでお前までここにいるんだよ」
キルアのもっともな問いに、尚樹は苦笑した。1から説明するのは面倒で、でもそれほどこみあった事情でもない。ざっと省いて説明するなら、
「クラピカに呼び出された」
の一言につきる。しょんぼりと肩を落とした尚樹に何か感じるものがあったのか、キルアの表情は同情的だ。ゴンはいつもと変わらぬ笑顔だったが。
「まあ、とりあえず飛行船に乗ろうぜ。帰るぞ」
示された飛行船は、クラピカ達と先ほどまで乗っていた飛行船。それに乗ってしまえば空港までそれなりに時間がかかる。なにより、船内での尚樹の立場が弱すぎる。
断固拒否。
「俺はいいやー。いまゼタさんから電話あったから急いで帰らない」
と、と言い切る前に足元で音もなく砂埃が舞った。影が一つ重なる。あっさりと抱え上げられて、尚樹は舌を噛まないように口を閉ざした。
お迎えはいいです、と固辞したにも関わらずこの速さである。さすが運び屋。
一瞬の出来事にクラピカ達が警戒の構えをとる。
「あ、大丈夫。大丈夫です、俺の保護者です」
以前店に来たときに顔を合わせなかったのがここにきてあだになるとはさすがに思わない。
どうどう、と皆を制止すると、ようやく構えをといてくれた。
「お迎えが来たのでクラピカ達は気にせず乗ってよ。俺はゼタさんと戻ったほうが早いから」
ばいばい、と手を振るとためらいながらもクラピカがきびすを返す。すぐそこにクロロたちもいるのだから、そう長居したい場所でもないだろう。9月とはいえ、風が強くて肌寒いことだし。
ゴンたちもそれに続いて、飛行船がゆっくりと浮き上がる。暗い空に溶けていくそれを見送って、尚樹は自分を抱えていた腕をぽんぽんと叩いた。
意図を察してすぐに地面に下ろされる。すぐ済ませます、と言い置いて尚樹はパクノダに駆け寄った。顔に残る血の跡が痛々しい。
手招きすると、身長の低い尚樹に合わせて身をかがめてくれる。ハンカチを頬に当てたが、乾いて固まった血の跡はあまりきれいには落ちなかった。
「ありがとう」
「いえ、あんまり落ちなかったですね」
「それでも」
嬉しいわ、と微笑んだ顔はどこか寂しさを感じさせた。
ざり、と背後で砂を踏む音。振り返ると、面白くなさそうな、そしてどこか気の抜けた顔でヒソカが立ってた。
「クロロ、出発していいってさ」
「あ、ヒソカ、パクノダさんと一緒にアジトまで戻ってあげてよ」
「ヤダよ。もう団員じゃないってバレてるのに」
「パクノダさんひとりだと困るでしょ、いろいろ」
「いいわよ、こんなやつ。必要ないわ」
「ほら、本人もこう言ってることだし」
睨み合う二人に苦笑して、尚樹はなだめるようにポンポンと二人をたたいた。
「団員じゃないって知ってるの、まだパクノダさんだけ?」
「一応ね」
「じゃあ、パクノダさんはヒソカのこと今晩だけ見逃してあげてよ。で、ヒソカはパクノダさんをちゃんと送って行って。女の人には優しくしないとだめなんだよ?」
はいはい、二人とも早く乗って、と飛行船に押し込む。ふと思いついてパクノダに以前渡したハンドクリームを握らせた。
「良かったら、次は買ってくださいね」

下で手を振る尚樹がどんどん小さくなって、すぐにその姿を肉眼では捉えられなくなる。
手のひらに収まる小さな容器。フタを開けるとあの落ち着く香りが立ち込めた。
手の甲に塗って、すり合わせる。窓に頭を預けて目を閉じると、じんわりとまぶたが暖かくなって、動くのが億劫になる。今更ながらに疲れていることをパクノダは自覚した。
締め付けるような頭痛が周期的に襲ってくる。空港に着くまで、そのまま目を閉じてヒソカとは一言も話さなかった。
もしかしたら少し眠っていたのかもしれないと気づいたのは着陸の衝撃。重い瞼をあげると、わずかに視界が滲んだ。数回瞬きを繰り返すも、あまり鮮明にはならない。手のひらで目を抑えると気持ちよく感じるのは、つまり眼精疲労か、と解釈した。
「立てるかい」
押し当てていた手をのけて目を開くと、差し出されていたらしい手のひらが視界に入る。それに声には出さないまでも、パクノダはひどく驚いた。まさかヒソカが自分に気を使うとは。
女性には優しくしないといけないという尚樹の言葉を真に受けたわけでもないだろうに。
いつもなら必要ないと払いのけるところだが、なぜだか今はその好意を受け取ってもいい気分になって、手を重ねる。すると、向こうは向こうで驚いたのか、一瞬動きが止まった。ゆっくり手を引かれて立ち上がる。
外は細かな雨がしとしとと降り注いでいた。雨に打たれながらアジトまでの道のりを手を引かれるままに歩く。視界の大半をしめるヒソカの背中、地面にできる雨の波紋をぼんやりと眺めながらパクノダはゆっくりと思考の中に沈んだ。
団長に課せられた制約は、念能力の使用の制限、そして旅団員との接触の禁止。パクノダ自身に課せられたのはクラピカの情報を一切漏らさないこと。つまり、今クロロがどういう状況なのか、パクノダには説明することができない。そして、なぜ説明できないのか、それも説明できない。つまり、この件に関してパクノダは何も話せないということになる。
でもそれでは、誰も納得しないだろうし、何も解決しない。そんなのは許容できない。それなら。
一つだけ自分には情報を伝えるすべがある。話していては、話し終わる前に念が発動して自分は死んでしまうだろう。だが知っているものこそ少ないものの、パクノダには自分の記憶を一瞬で他人に伝えるすべがある。

一度に打てる弾は6発。全員には打てないけれど十分。
それは自分の命と引き換えになってしまうけど、これが一番確実でほかに選択肢はないように思えた。
「君が」
唐突にかけられた声に我に帰る。ヒソカは前を向いたまま、歩調を変えることもない。
「君が何を考えているかは知らないけどさ」
何事も、方法がひとつということはないと思うよ。
静かな、落ち着いた声。雨音に遮られることなくパクノダの耳に届いた声は、まるでその思考を読んでいるかのようでさえあった。
「団長のことはさ、そんなに心配しなくても、生きているんだし。あの程度のことなら自分でなんとかすると思うし、何よりあれで他人を頼ることを知っている男だ」
「……それは、そうだけど」
でも、だからと言って放っておけるわけがない。すくなくとも、他の団員に現状を伝える必要はある。
ふぅ、といささかわざとらしくヒソカがため息をついた。
「まったく、強情だなぁ。じゃあもう一つ、君に言葉をあげよう。占いを覚えているかい」
占い、というのはクロロが盗んだ能力で、100%あたる予知能力のことだ。パクノダはそこで死ぬことが予言されていた。
「実は僕の本当の占いでは、団長との対決はおそらく火曜のはずで」
今日は9月5日……日曜だ。
「しかも退団するときにはもう、団員は半分になっているはずだったんだよ。運命はすこしずつずれてきてる」
まあ、アジトに着くまでによく考えてみてよ、と他人事のように呟かれた声が地面に落ちた。

アジトには、残りのメンバー全員が揃っていた。
この中でパクノダの記憶弾を知っているのは、実際に打ち込まれたことのあるノブナガだけ。
祈るように銃を持つ手を額に当てると、ふと覚えのある香り。あまくて、爽やかで、すこし苦い。そうだ、これは。
白黒の記憶。目を見開いてゆっくりと仰向けに倒れる女の顔。
「おい、しっかり説明しろ!」
なにも言わないパクノダにじれたフィンクスが殺気を放つ。急に止まっていた思考が動き出したのを感じた。
「ちゃんと説明する。だからもう少し待って」
「ああ!?」
「フィンクスうるさい。団長なら大丈夫だから」
なおも言いつのろうとするフィンクスの言葉をぴしゃりと遮って、パクノダはヒソカを振り返った。
どういうつもりか、本当にアジトまで送ってくれたのだ、この男は。
方法はひとつじゃない、と言ったヒソカの意図は正確には分からないけど、確かに違う道を示してくれていた。
「ヒソカ、あの子の連絡先知ってる?」
「……そっちかい」
呆れたように肩を落としたヒソカに構わず、さっさとよこせと手を差し出す。
「普通さぁ、そこは僕を頼るところじゃないのかい。今、ここで、君の眼の前にいるのはあの子じゃなくて僕だってわかってる?」
「あんたに借りを作りたくないのよ。分かりなさい」
「心配しなくても、僕は君に借りがあるからお互い様だよ」
借り、と言われてもピンとこない。少しだけ記憶を遡って、尚樹に言われたことを思い出す。
見逃してあげてください、と言っていなかっただろうか。つまり、今ここでヒソカがもともと団員ではなく団長をハメた張本人だと黙っていることが彼にとっての借り、なのか。
「……でも、送ってもらったわ」
尚樹の言葉通りなら、それで貸し借りなしだ。それにパクノダはヒソカに怒っているわけではない。復讐の相手は間違えない。
「そんなの、貸しのうちにも入らないよ」
本当に、強情だなぁ、と噛みしめるように言われて少し気まずくなる。先ほど言われたばかりだ。
「おい、ふたりでなにごちゃごちゃやってる。さっさと説明しろよ。返答次第じゃ……」
「フィンクス、落ち着け」
他人が熱くなると逆に冷静になるのか、いつもは諌められる側のノブナガがフィンクスを抑える。
「……最初にヒソカが鎖野郎に掟の剣を刺されただろう。この状況でパクに刺されていないわけがない」
「同感だ。ヒソカに課したルールのように、話せば死ぬと言われていたら説明どころじゃない」
ノブナガの言葉にシャルナークが同意する。腰が抜ける、というのはパクノダにとって初めてのことで、急に膝から力が抜けた。
「おっと」
瓦礫の上に倒れこみそうになるパクノダの腕をヒソカが掴む。パクノダはそのままぺたりと座り込んだ。
「パク!」
駆け寄ってきたマチが側に膝をつく。大丈夫か、と気遣う声にぎこちなく頷いた。
変わり始めた運命に、どうしようもなく安堵していた。
「パクノダは今回の件に関して何も”言えない”。代わりに僕が説明するよ」
「ヒソカにも掟の剣が刺さってるだろ」
ノブナガの胡乱な眼差しに、ヒソカはいつものチェシャ猫のような笑みで応えた。
「それについては、偶然だけど解決してね」
「っ、なら」
「蜘蛛を退団した」
投下された爆弾に一瞬空気が止まった。一番先に我に帰ったのは、その事実を皆に黙っていたパクノダだ。
「ちょっ、ヒソカ……」
腕を引いてヒソカを止めようとするも、本人は何食わぬ顔で続けてしまう。
「なかなか強力な能力だったからね、何かしら制約があるんじゃないかと思ってはいたんだよね。おそらく、使用する相手は蜘蛛だけ、とでも制約をつけてたんだろう。退団したら能力が解除されたからね」
もちろんヒソカのでっちあげだが、当たらずとも遠からず。
「パクノダに課せられたルールは鎖野郎の情報を漏らさないこと。団長に課せられたルールは念能力の使用の禁止と、旅団員との接触禁止だ」
ここに団長がいないのはそれが理由だね、とヒソカは肩をすくめた。
「随分まわりくどい条件なんだな。殺さない理由がわからない」
めずらしく眉間にしわを寄せてシャルナークが考え込んだ。それは確かにそうだ。しかしこれに関してヒソカは嘘をついていない。
相手の目的は復讐、なのにクロロもパクノダも生きている。殺すチャンスはいくらでもあったのに。
「そこのところは、僕に聞かれても分からないけどね」
「相手の情報は」
「クルタ族の生き残り。若い男だったよ……念能力は相手にルールを課す掟の剣と、他にも拘束用の鎖もあったかな。いくつか種類があるみたいだ」
「クルタ族……緋の目か」
ヒソカはそのころまだ団員ではなかったので詳細は知らないが、シャルナークを含め、一部のメンバーは顔をしかめた。ちゃんと記憶があるようで何より。
「まあとにかくさ、今は団長についている念をなんとかしないことには接触もできないから、そのクルタ族の男のことは置いておくしかないんじゃないかな。パクノダの念も解除しないといけないし」
「……仕方ないか。そういうタイプの念なら迂闊に使用者を殺すのはまずい」
「そうだなぁ、そうとう恨みが強そうだしな」
シャルナークの言葉に同意を示したノブナガに、フィンクスは一度舌打ちするだけで同意を示した。他の人間も特に何も言わないところをみると、同意見だろう。
思いの強すぎる念は、使用者が死んでしまえばかえって強く残る。今はただ、クロロが徐念師を見つけて念を外すのを待つしかない。
「まあ、そういうわけだから、退団した僕はそろそろお暇するよ」
両手を軽くあげて戦闘の意思がないことを示す。右足を少し引いたところで、パクノダが顔を上げた。
「……ありがとう」
思いも寄らない言葉に一瞬目を見開く。これでも、最初にクラピカに情報を渡したのは他ならぬヒソカなので、まさか礼を言われるとは。
一瞬なんと返すべきか悩んで、どういたしまして、とおきまりのセリフを口にした。
体重をかかとに移動して、地面を蹴る。雨は、いつのまにか止んでいた。