ボーダーライン
初日に出歩いてからはどこで誰と出会うのか分かったものではないので、ホテル内の施設を存分に活用し楽しんでいた尚樹ではあるが、4日も引きこもっていれば流石に外にも出たくなる。
保護者が仕事に出ているのでちょっとくらい外でも見て回るか、ともう外も暗くなり始めていると言うのに部屋を出たのだ。
ちなみに、夜一も誘ったのだが、冷たく断られた。
部屋の鍵を持ってホテルのエレベーターに乗り込み1の数字を押す。
チン、と音を立てて止まったエレベーターから降りる前に、階数の確認をするのも忘れない。時々、目的の階以外で降りちゃうよね、これ。
キーをフロントに預けようと差し出して、よくよく見ればその顔が知ったものであることに気づく。
そして、この状況は知ってるぞ、と少し騒がしいフロアに眉根を寄せた。
「……お出かけでございますか」
一拍置いて笑顔も浮かべずにそういった知人に、突っ込みたいのはやまやまだが、今それをしたらおそらくきっと必ず後でひどい目に遭うだろうことは想像に難くない。
よく女装が似合っていますよ、と心の中でだけ賞賛の言葉を贈っておいて時計に目をやった。
あと2分で7時。最悪のタイミングだな、とキーを引っ込める。まさか蜘蛛とクラピカがやり合うのが今日だったとは。流石にこの辺の細かな時間の流れまで覚えてなどいない。
「あの、お客様……?」
言うなよ、という空気をにじませながらも受付らしくクラピカが振る舞う。なぜ女装をえらんだ、と内心で突っ込みつつ笑みを浮かべようとするも、尚樹の顔に変化は見られなかった。
「……部屋に忘れ物をしたので、やっぱり良いです」
主に平穏とか、きっとそういうものを。
くるりときびすを返して部屋に戻ろうとした尚樹を、しかしそう簡単に返してくれるほどこの世界は優しくなかった。
無情にも知りすぎた声が背中にかかる。
「……尚樹か?」
「ヒトチガイデスヨー」
「ちょうどいい所で」
がし、と肩をつかんだ幻影旅団団長に尚樹は振り返ることも億劫で渇いた笑みを浮かべた。
今すごく、疑われてる、自分。こんなクラピカの目の前で声かけなくても良いじゃん、と詮無いことを考えた。
7時まで、残り1分を切った。
まずいなぁとしぶしぶクロロを振り返る。さりげなく体の位置をずらして、クラピカとクロロの直線上からのいた。もしもの時に、鎖に巻き込まれないようにと言う姑息な思考である。
「俺、楽しい旅行中なんです。厄介ごとに巻き込まないでもらえますか」
「ほう、何も言ってないのに厄介ごとと分かるわけだ」
「……あなたに声をかけられると、大抵厄介なんですよ」
「で、何を知ってるんだ?」
まぶしいほどの笑顔で問うクロロに、失言だった、と先ほどの発言を悔やむ。
ああ、でも本当に、厄介だ。
しっかりゴンとキルアにも目撃されて、もう言い訳のしようもありません。
レオリオもいるし、とわずかな目の動きでフロアの様子を把握した尚樹は心の中で盛大なため息をついた。
視界の隅で秒針を追って、ここから離脱する方法に思考を巡らせた。
数分前の自分の気まぐれをのろっている場合ではない。位置的に、クラピカの気分次第ではもうこれクロロと一緒に連れさらわれるコースだ。
背中に右手をまわして、そっとオーラを集めた。
7時まで10秒をきった。
念で強化した耳には時を刻む僅かな音すら届く。
長身と秒針が重なる瞬間、ひときわはっきりと音が聞こえた。
7時になると同時に堂々とどこでもドアを背後に具現化した尚樹はクロロの腕を強く払う。
巻き込まれて一緒に連れて行かれては、気まずいことこの上ない。
車の中で死にたくなること請け合いだ。
後ろ手にノブをまわして倒れる勢いでドアの向こうに身を投げる瞬間、何かが鼻先を掠めた。背後からわずかに漏れる明かりがそれを照らす。そういえば、この鎖は蜘蛛以外には使えないんだったか、と遠い記憶をさらった。
どさりと柔らかいものの上に仰向けに倒れこむ。さすがにスイートルームのベッドはスプリングが効いている。
どうやら、場所はしっかり合っていたようだ。
「……どうした」
急に現れた尚樹に、夜一は目を丸くした。先ほど出て行ったばかりなのに、もう戻ってきたのかと。
尚樹は部屋を確認して深く深く息をついた。
「……下でクラピカと旅団がやり合う寸前だった」
「……お前も、たいがい運が無いな」
「何もこのホテルでやらなくても……ていうか俺もわざわざこのホテルに泊まらなくても……」
ごろごろとベッドの上を転がって、まあ、なんとか回避出来たし、いっか、とお菓子に手を伸ばした。
高級な所はルームサービスも高級だ。
「予定変更。夜一さん、しばらくホテルから出るのはやめとこうね」
「まあ、俺は別に構わんが」
晩ご飯は何を頼もうかなー、とメニューを広げだした飼い主に、ものすごい切り替えの早さだ、と半分呆れて半分感心してしまった夜一である。
そして数分後にかかって来た電話に、デスヨネ、とうなだれた姿に首をかしげるばかり。
「野暮用で出かけて来ます……」
電話の隣に備え付けられていたメモ帳に書き置きして、盛大なため息をつく飼い主をベッドで伸びながら眺める。そんなに気が進まないなら行かなければいいのにと夜一としては思うのだが、人間というのは面倒なものだ。
場違いだわー、ほんと場違いだわー、と遠い目をしながら尚樹は窓の外、雨で視界の遮られる空を眺めていた。なぜかこんな雨の中を優雅に飛行船で遊覧中、というわけでもないが、移動中だ。
室内は大変気まずい。それもそのはず、気のたったクラピカに、それを煽るクロロ。そしてそれをなだめるセンリツとレオリオ、うっかり巻き込まれた自分という図なのだ。
「レオリオさんや」
「……なんだ?」
「俺はどうしてクラピカに呼び出されてしまったんでしょう」
「いや、まあ、その……なんだ、どんまい?」
気まずそうに視線をそらすレオリオ。まあ、どう考えてもあの場に居合わせた自分が悪いのでフォローのしようもない。
「尚樹は、そういえばヨークシンに旅行に行くと言っていたな」
「ソウデスネー」
頼むから仲良しアピールしないで欲しい、と話しかけるクロロに視線を向けることなく返す。
「何かいいものは手に入ったのか?」
「あ、聞いてくださいよ。値札競売市で万年筆を見つけて、それが結構安い値段、で」
あ、と気付いた時にはすでにクラピカから冷ややかな視線を向けられていた。ついつい、万年筆を手に入れた時のテンションがぶり返してしまった。すこし椅子から浮いた腰をストンと下ろして再び窓の外に視線を向ける。
その時に一瞬だけセンリツと視線がぶつかった。笑っていいですよ、と心の中で伝えておく。彼女なら伝わるかもしれない。音で。
「尚樹、いくつか聞きたいことがあるんだが。手荒な真似はしたくないのでできれば正直に答えて欲しい」
クラピカの威圧的な声に、ふ、とクロロが息を漏らした。
「何がおかしい」
「いや、まるで自分の方が優位であるような言い方だなと思って」
一応、そこのはお前より随分前から念が使えるようだが? と首をかしげるクロロにクラピカが気色ばむ。
「もー、そうやって人の神経逆撫でするから嫌われるんですよ」
すぐにでも爆発しそうなクラピカをなだめるために、尚樹はクロロの口に飴玉を投げ入れた。ちなみに、スイートルームに置いてあった高級なやつである。
「それで? クラピカ、聞きたいことって?」
「……その男が蜘蛛のリーダーだといつから知っている」
「……さあ、正確には覚えてないです。うちの店にたまたま来ただけなんで」
確か冬でした、といらない情報を付け加える尚樹に、クラピカはちらりとセンリツを見遣った。小さく頷いたところを見ると、嘘ではないようだ。
「それで、尚樹は蜘蛛の味方なのか?」
「別に味方というわけでは……知り合い、というだけならうちは立地上ゾルディックとも知り合いですし」
そういえばそうだった、と随分昔のようでいて、実は結構最近の出来事をクラピカは思い出した。
「ちなみに、今回ヨークシンにいたのは保護者の仕事の関係であってこの人たちとはカケラも関係ありません」
必死に偶然であることをアピールするも、クラピカの反応は芳しくない。もう俺はどうしたら。
ちらりと外に視線を戻すと下に人影が見えた。どうやら、待ち人が来たらしい。
あー、その前にここ脱出したかった、と落胆しながらクラピカに窓を叩いて知らせる。乗りかかった船とはまさにこのこと。船は船でも飛行船だが。
取引の時間だ。
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