ボーダーライン

ふんふんと鼻歌を歌いながら、尚樹は自分の部屋で荷物を整理した。
なんせ久々の、というかこの世界に来て初めての旅行なので、何を持っていけば良いのかあまり分からない。
泊まる所は結局奮発してスイートにした。
「パジャマって持っていった方が良いのかな」
「いらないだろ、そもそもスイートなんだし」
「そっか。そう考えると、何か高級そうな寝間着出てきそうな気がしてきた」
おもにシルクとかそんな感じの。
「夜食にインスタントラーメンでも……」
「ルームサービスがあるだろ。そもそも、スイートルームでそんなもん食うな」
「いや、そうなんだけど、粗食が恋しくなるかもしれないし」
真剣に苦悩する飼い主に、もう何でも持っていけ、と夜一は生温い視線を送った。
どうせ、また変な道具で小さくして持っていくのだろうし、嵩は関係ない。
突っ込みどころとしては、現地調達と言う言葉を知らないのか、と言う所か。
そうこうしているうちに、結局インスタントラーメンは旅のお供をすることになったらしい。広げられている荷物の大半は、夜一からしてみれば旅行に必要のないものばかりだった。

8月末日。
早朝に仕事をすませたゼタは、ひろーい、と部屋の中をちょこまかと動き回る尚樹をデジカメで追いかけた。
「ゼタさん、ゼタさん、お菓子があります!」
「ああ、食べて良いぞ」
「お茶にしましょう!」
いそいそとお茶の準備をしだす尚樹に危うく噴きそうになりながら腰を下ろす。
なれた様子でお茶を入れる尚樹の手元を眺めた。
ホテルは自分が予約する、と張り切っていたので任せていたら、まさかの親子でスイートルームを予約されていた。何をいっているか以下略。受付の微妙な笑顔が居た堪れない。
用意されていた紅茶はスイートルームらしく、上品な香り紅茶で、自宅では使わないような華奢な持ち手のカップに注がれていく。
早速お菓子に手をつけながらご満悦な表情の尚樹をそっと携帯の待ち受けに設定した。
「どこか行きたい所があるなら連れて行ってやるぞ」
早めにヨークシンに来たので、ゼタも少し余裕がある。なかなか外へ連れて行ってやれないので、観光も兼ねてどこか連れて行ってやろうと思っていた。
「本当ですか? それなら俺、市場の方いってみたいです。なんか蚤の市? みたいなのやってましたよね」
「ああ、値札競売市か。いいぞ、すこし回ってみるか」
公式のオークションは明日からの開催だが、非公式のものはいつでも開かれている。値札競売市はそれほど金額の高いものもなく、蚤の市とさほど変わらない。今の時期は特に人も多く賑わっていた。
そういえば、以前蚤の市で土鍋を買って来ていたか。もしかしてそういうのが好きなのだろうか。
ゆっくりと紅茶を味わった後、子供の手を引いて街へ繰り出す。流石に明日から大規模なオークションが開催されるため、人の数がすごい。
キョロキョロと視線をやって歩く尚樹と離れないように、しっかりとその手を握った。
コースターやらブックカバーやら、ちょっとした雑貨に値段を書いて回る。みている感じ、それがどうしても欲しいと言うよりは、この緩い競りを楽しんでいる風情だった。
尚樹の様子を見守りながら、周りにもそれとなく気を配る。尚樹の言っていたことが本当なら、すでに蜘蛛の連中が近くにいてもおかしくはない。目的のオークションは夜からだが、あそこの団長は何かと尚樹にちょっかいをかけてくるので、ゼタとしては油断できないのだ。そして、そんなゼタの警戒を知ってか知らずか、堂々と人混みをかき分けて近寄ってくる人物に思わず舌打ちが漏れる。
露店を眺めるのに夢中で尚樹がそれに気付いていないのが救いだが、あれは蜘蛛とは別口で厄介な男だ。
近くまで寄って来た美丈夫は片手をあげて、やあ、とチェシャ猫のように笑った。
「あれ、ヒソカこんなところで油売ってていいの?」
「いろいろ突っ込まないでおいてあげるけど、僕の仕事は明日だから今は油売ってていいの」
ピエロのメイクをしていないヒソカは大変に美形なので、尚樹の態度も柔らかい。それも計算ずくでこの格好なのだろうが。決して人混みであの格好は目立つという常識的判断のうえでの行動ではないはずだ。
ふと、そういえば明日からのオークションについてはヒソカからのリークだと尚樹が言っていたのを思い出す。今の会話はその絡みだろう。
クロロに気に入られるもの、ヒソカに気に入られるのもゼタとしては避けたいわけだが、過ぎた話だ。どちらも何を考えているのか分からない。
「君たちは明日からのオークションに参加しないのかい」
「なんで進んで危ないところに行くのさ……そんなお金もないし」
「そう、残念。でも賢明な判断だね。あまり出歩かない方がいいよ」
「俺はそのつもりだけど」
ちらりと見上げてくる視線に答えるように、ゼタは尚樹の頭を撫でた。もとより、尚樹から忠告を受けていたのでオークション中はそっちがらみの仕事は受けていない。
何度か出かけるつもりではあるが特に支障ないはずだ。
「ふうん、そう。まあ、仕事相手がいなくなるのも考えものか」
ヒソカの殺す殺さないの基準はいまいちだが、ゾルディックとも付き合いがあるところを見ると、強い人間をだれかれ構わず殺したいわけではないらしい。ゼタは、おそらく自分がそういう対象に入っていないことを認識している。
「ねえ、ところで美味しいご飯屋さんを見つけたんだよ。一緒に行かないかい」
尚樹の隣にしゃがみ込んで視線を合わせるように話しかけるヒソカは一見すると気のいいお兄さんだ。ただの戦闘狂だが。
「ヒソカの奢りならいいよ」
誰がお前と飯なんか食えるか、まずくなる、とゼタが突っぱねる前に、無情にも尚樹が返事をしてしまう。前々から不思議なのだが、その辺の警戒心の無さは一体なんなのか。
危ない人にはついていくなと口を酸っぱくして言い聞かせているはずなのだが。
ヒソカもヒソカで、尚樹の方にお伺いをたてるのが汚い。ピエロ汚い。
ご飯行きましょうと手を引く養い子が可愛い。汚いから可愛いの乱高下が激しくてめまいがしそうだ。
しかめ面の下でひとりどうしようもない葛藤をしている間に連れてこられたのは、ヒソカにしてはまともな、普通のイタリアンだった。食事よりも前にデザートのメニューに釘付けになる尚樹をなだめて、ランチを選ばせる。
割とチープなものが好きな尚樹の趣味を抑えた店のチョイスにぐうの音も出ない。
ひとりあつあつのグラタンと格闘している尚樹を他所に、ヒソカがゼタに視線を向けた。
「……なんだ」
「いや、オークションが終わった後はそのまま帰るのかい? それとも観光?」
「観光はオークション中にすませるつもりだが……」
「ふーん、そう。できればオークションの後に仕事を頼みたいんだよね。大したものではないんだけど、もしかしたら僕が身動き取れないかもしれないから」
なるほど、こっちが本題か。ただ尚樹に絡みに来ただけかとも思ったが、一応仕事の依頼もあったらしい。その荷物、とやらが何かは分からないがそこを下手に探らないのも運び屋の仕事のうちだ。
中身がなんであれ、幸いにして今までヒソカがらみの仕事でトラブルになったことはない。
「……いいだろう。オークション中はそこのベーチタクルホテルに滞在している。終わったら店に戻るから、いなかったらそっちに来い」
「助かるよ」
その後パフェまで完食した尚樹は、値札に書き込んだものの場所を覚えていない品物をゼタに手を引かれて見て回り、そのうちいくつかを手に入れてホテルに戻ったのだった。