踏み出す瞬間
以前どこでだったか、こんな言葉を聞いた。
人を殺してはいけない、なぜならそれが暗黙のルールだからだ。
なぜ暗黙のルールかといえば、日々を誰に殺されるかとおびえて過ごさないため。
私はあなたを殺さない、だからあなたも私を殺さないで、という約束なのだ。
これを聞いた時、人を裁いてはならない、自分が裁かれないためである、という有名な一説を思い出した。
そして、人を殺すということは、いつ誰に殺されるかもわからないことを甘受することなのだと悟った。
膝の上で仰向けになってくつろぐ飼い猫の腹をブラシですきながら尚樹は静かな午後を過ごしていた。
平日の昼間はこうしてぽっかり空く時間がある。表に人気はあるけれど花屋を気にかけるものはいない、そう言う時間だ。
カウンターの隅に置いたノートパソコンの画面がほの暗い店内にまぶしく感じられる。
開かれたメールには仕事の依頼。
しばらくは閑古鳥が鳴くだろうと思っていたのだが、約束通りヒソカがうまいこと宣伝してくれたようで、そう待たずに初めての依頼が届いた。
一発目から失敗すると験が悪いので、一応ターゲットの名前と顔を確認してみたが、依頼内容に間違いはない。
後は受けるか受けないかの返事を出して、依頼を遂行して、報酬を受け取るだけ。
報酬は二千万J、という相手の申し出だが、正直高いのか安いのか分からない。
ただ、それがどれほどのものか想像もつかないほど自分にはなじみのない数字であることは確かだ。
「人を裁くな、か」
依頼を受ける旨と口座、振込期限を簡単に打ったメールを送信する。
本当は明日までに振り込んで欲しいくらいだが、一応三日くらいは相手に余裕を与えるべきだろう。
依頼自体は一分もあれば完了してしまう。しかしその速さを向こうにも求めるのは酷というものだ。
ついでに、自分の僅かな労力に二千万も払ってもらうのは気が引けるが、それはターゲットの命の重さか、あるいは依頼主の想いの強さか、いずれにしてもそういうものの値段なのだろうと割り切っておく。
誰も自分がどうやって仕事をしているのかなんて知りえはしないのだから。
手の中に具現化した黒いノートをぱらぱらとめくる。いろいろと細かいルールは書いてあるけれど、自分にとって重要なのはただ一つ。
デスノートに名前を書かれた人間は死ぬ、その事実だけだ。
メールに添付されていた写真と名前を確認しながら、カウンターのペン立ての中の鉛筆を手に取った。
いつもより気持ち丁寧にその名前を綴る。自分で書いたハンター文字を見ていると、いまだにゲシュタルト崩壊を起こしそうになる。
時計の音がやけに大きく聞こえた。
眠くなってきたのか、うつらうつらと寝返りをうった夜一の頭を撫でて、いつもと変わらぬゆったりとした時間の流れに目を細める。
カレンダーに目をやると日付は2月14日。そう言えばハンターの世界にはバレンタインデーなんてあるんだろうかとどうでもいい事を思った。
店先に人の影が差し、数人がそのまま中へと入ってきた。
机の上に出していたノートをしまう振りをしつつ具現化を解く。
「……久しぶり」
「久しぶり!」
無邪気な笑みを浮かべて駆け寄ってくるゴンに、尚樹は小さく笑みを返した。
ゴンの後ろにはクラピカにレオリオ、そしてキルアの姿。
「キルアも、久しぶり」
「ああ。つーかお前こんなところに住んでたのかよ」
しかもなんか見覚えのあるジャムとか置いてあるし、とあきれたようにキルアが店の中を見渡した。
無理もない。まさかこんな近くに住んでいるとは思わないだろう。
店に直接顔を見せるのはゼノさんとシルバさん、そしてイルミくらいだ。
意図的なのか偶然なのか、尚樹がゾルディックに足を運ぶ時は門番と執事、キキョウぐらいしか顔を合わせない。
まあ、もともと尚樹としてはあまりゾルディックとかかわり合いたくなかったのでそちらの方が好都合ではあったのだが。
もはや首までどっぷり危険地帯に浸かってるな、と当初の「極力原作キャラにあわずに静かに平和に暮らす」という目標をむなしく振り返った。
正直、そうそう都合良く知っているキャラに会う事もないだろうと高をくくっていたし、実際この世界に来て3年くらいは本当に何もなかったのだ。
あの雨の日に、ヒソカに会ってしまったのがそもそもの間違いだったのだろう。
あれから坂を転げるようにこの世界の流れに取り込まれてしまったように思う。
まあ、それも別に今となってはどうでもいい事だ。どうしようもない事を思い悩んでも意味がない
「お茶、入れてあげる。中に上がりなよ」
店内で4人をもてなすのは厳しいし、ちょうど人の少ない時間だから席を外しても大丈夫だろう。そう思って尚樹はカウンターの中から自宅の方へと皆を招き入れることにした。
せっかくいい気持ちでうたた寝していたのに、と不満げな顔で夜一がカウンターの上へととびのる。
宥めるようにその背をひと撫でして居間へと向かった。
上がってすぐのところに居間があるので皆をそこに通して保護者の書斎へと足を向ける。
ぷにゅぷにゅと足音をたてるスリッパに気付いてか、尚樹がドアをたたくよりも早くゼタが顔を出した。
「あ、ゼタさん、知り合いがきたのでちょっと居間の方使いますね?」
「ああ……それは別に構わんが。危ない奴じゃないだろうな?」
「うーん? かなり良心的な方々だと思いますが、一人はゾルディックですね。お茶入れますけど、ゼタさんは何がいいですか?」
「……ほうじ茶」
「了解です」
尚樹の言う良心的はあまりあてにならない。なんだかんだ言いつつゾルディックにも懐いているくらいだ。
しかし先ほどの言い方から、今日顔を見せているのはシルバやゼノ、イルミ以外のゾルディックだろう。その3人なら、わざわざゾルディックとは言わず名前で呼ぶはずだからだ。
気配から念能力者はいなそうだし、まあ大丈夫か、とゼタも台所へ向かった。
一人お茶を沸かしている尚樹の後ろ姿を眺める。
居間と台所を仕切るドアの向こうから、時折子供の話し声が聞こえた。
「……尚樹、何かあったか?」
ゼタの問いに、尚樹がゆっくりと振り返る。その顔はまさにきょとん、としていて心当たりがないどころか、何故ゼタがそんなことを言うのかすら分からない、と書いてあった。
近づいてその目にかかる前髪を払ってやる。
「ゼタさん?」
「少し、伸び過ぎだぞ」
ゼタの言葉に、何かを思い出したように尚樹がポケットの中を探った。
出てきたのは小さな花のついた髪留め用のピン。
それで無造作に前髪をとめようとするが、うまくまとめられずこぼれた髪が目にかかる。
どうも自分の事となると不器用だな、と男の子には少し可愛すぎるそのアイテムで前髪をとめ直してやった。
おそらく客からもらったのだろう。ときどきおもしろ半分で若い女性客達がこういう物を尚樹に寄越しているようで、尚樹自身がそれをこうして抵抗なく使ってしまう故にその行為を助長してしまっていた。
尚樹くらいの年頃ならこういうものは嫌がりそうな物だが、本人は特に気にしていないらしい。
「ゼタさん? どこかおかしいですか?」
「いや、似合ってるぞ」
「いえ、ピンじゃなくて……」
質問の意図が分かり、ゼタは改めて尚樹を見遣った。
その体をおおうオーラはよどみなく循環し、尚樹の体にとどまっている。
オーラの量は決して多い方ではないが、その流れはお手本のように凪いでいる。
普通ならそれにおかしなところなんてなかった。
「いや……ただ、めずらしく纏をしていたから」
何かあったのかと思って、というゼタの言葉が終わる前に纏はとかれていつものように一般人のそれと同じ物になった。
その反応の早さに思わず目をしばたたかせる。
「さっきちょっと念を使ったので、そのまま忘れてたみたいです」
そう苦笑しながら差し出されたお茶を、反射的に受け取った。
湯のみを通して伝わるその熱さに、一瞬気をとられる。
居間へとお茶を運んでいくその後ろ姿を見送って、ゼタはちいさく首をかしげた。
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