踏み出す瞬間

ポッポーとハト時計が正午を告げた。
春先の日差しは暖かく、しかし空気はまだ肌寒い日のことだ。


今日は、保護者が仕事で家を空けているので、尚樹は一人でお留守番だ。
いそいそとカウンターから降りて台所へと向かう。
冷蔵庫の中には、ゼタさんが朝出かける前にわざわざ用意してくれたお弁当がひとつ。
「お弁当」が好きな尚樹はお昼になるのを今か今かと待ち構えていたのだ。
コップにオレンジジュースをそそいで、弁当と一緒にカウンターに戻る。
わくわくとしながらお弁当を開くと、中身はサンドイッチだった。
いろどりのためか、脇のほうにはりんごうさぎ。
「おお……ピクニック風」
いただきます、と行儀良く手を合わせた尚樹に、低い声で夜一は突っ込みを入れた。
「……お楽しみのところ悪いが、俺の餌はどうした」
「……忘れてなんてないよ?」
うそつけ、と内心で思いながら夜一は飼い主をじと目で睨む。
再びカウンターから降りて台所へと向かう尚樹の後ろを、夜一はついていった。
外の喧騒が流れてくる店内とは違って、家のほうはシンとして別世界だ。
尚樹のスリッパが立てる不可解な音が静かな空気を振るわせる。
「猫缶…マグロと、えーと、かつお…あ、ささみもあるよ。キャットフードもあるけど、どれがいい?」
「ねこまんま」
不覚にもむせた。
「ね、ねこまんまは、体に悪いんだよ? メタボリックなんだよ? だからとりあえず今日は猫缶にしてね?」
まぐろ、かつお、ささみと目の前に猫缶を3つ並べて、尚樹は夜一のねこまんま発言に打ち震えそうになるのをたえた。
ときどき、夜一さんはすごくかわいい発言をするから大変だ。
ちょっとしょんぼりしながらも、夜一は右前足をささみの猫缶の上に置いた。
「ささみだね。あとはミルクでいい?」
こくりと夜一がうなずいたのを確認して、尚樹は冷蔵庫の中から牛乳を取り出した。
夜一専用の皿と猫缶も一緒に再びカウンターへと舞い戻る。
牛乳を注ぎ、猫缶も出してやってようやく自分の昼飯にありついたのだった。


「やあ、こんにちは」
中身が生クリームと果物のやつは最後だな、と真剣にどれから食べようか悩んでいた尚樹は、その声に呼ばれるまで人の気配にまったく気付いていなかった。
顔を上げると、10人中10人が美形と答えるだろう顔。
ついでに、性格は10人中10人が変態と答えると尚樹は思っている。
「店長ならいないよ? ヒソカ」
「別に。今日は彼に用事があったわけじゃないよ」
「そうなの?」
「そうなの」
ふーん、と適当に相槌を打って、尚樹は再び弁当に目を落とした。
そんな尚樹の視線の先を、ヒソカも当然追う。
「かわいいお弁当だね。誰に作ってもらったんだい?」
「店長だよ」
「へぇ。わざわざ?」
「うん、今日はゼタさんお仕事でいないから。ゼタさんもおんなじお弁当なんだよ」
とりあえず野菜系から攻めるか、と中身がサラダっぽいものを手に取った。
隣では黒猫がちょうど猫缶を食べ終えて、満足そうに口の周りをなめている。
「……君んちは、猫も同じテーブルで食事をするのかい?」
「食卓には乗らないよ、さすがに」
隣で猫が食事をすることが気にならないのか、尚樹はぱくりとサンドイッチにかぶりつく。
どこか勝ち誇ったように夜一がヒソカに視線を送った。
一人と一匹が火花を散らしていることにはまったく気付かず、尚樹は次はメインとばかりにコロッケサンドに口をつける。
「ところで、結局ヒソカの用事って何?」
「ああ、ちょっとお誘いにね」
「おひゃほい?」
「そう、お誘い。暇なら僕に付き合わないかい?」
指についたソースをなめとりながら、ヒソカの意図について考える。
基本的に、ヒソカに付き合って得することなど皆無だろう。
とりあえず、サンドイッチをパクリ。
生クリームの甘味と、果物の酸味がちょうど良い。
「おいしいです」
「……良かったね」
一人楽しそうにサンドウィッチを頬張る飼い主に、どこか諦めたように彼の食事が終わるのを眺めているヒソカ。
不覚にも、夜一がヒソカに同情した瞬間だった。
「ヒソカも食べる?」
フォークに突き刺さったりんごうさぎをヒソカはおとなしく受け取った。
初対面が初対面だったせいか、何かと尚樹はヒソカにものを食べさせたがるのだ。
ここの店長が作ったとは思えないほどかわいらしいアイテムに、ヒソカは歯をたてた。
「それで、結局暇なのかい?」
「先に言っとくけど、暇でも天空闘技場には行かないよ?」
「……誰かに聞いたのかい?」
用件を切り出す前に答えを返された尚樹にそう問いつつも、誰にも天空闘技場に行くことを教えていないのは、ヒソカ自身がよく分かっていた。
「ただの勘だよ。どっちにしても、店番あるしね」
「手っ取り早くお金も稼げるよ?」
「ああ、それなら最近仕事始めたから」
必要ない、という尚樹にヒソカはいささか驚いた。
それと同時に、そういえばもう働いてもおかしくない年齢かと思い出す。
ハンター証も持っているのだから、よくよく考えれば今まで何もしていなかったことのほうがおかしいくらいだ。
「何の仕事だい?」
「後で教えてあげるよ。とりあえず、俺弁当洗ってくるから、店番してて」
ヒソカの返事など聞かずさっさと奥に引っ込んでしまった尚樹に、仕方がないとヒソカはカウンターの中に入っておとなしく腰を下ろしたのだった。


「美形を店番に使わない手はないよね」
「……俺はたまにヒソカがかわいそうになる」
きっと自分は間違ってない、と一人店番をするヒソカの背中を夜一は眺めた。