縁を結んだ水曜日

3rd day-Wednesday

興味なさ気に頬杖をついて最後の一手を放った相手の顔を、一生忘れないと思った。




「なぁ、東京駅に行くにはこのバスでええんか?」
頭上からかけられた声に顔を上げた。
逆光でまぶしい。
手のひらで日をさえぎりながら一つうなずいた。
「おおきに」
自分以外は誰もいないベンチに相手が腰掛ける。
背の高い男だ。
学ランを着ているから、きっと自分と同じ高校生だろう。
そこまで考えて、再び自分の手元に視線を落とす。
昨日買ったマグネット碁。
携帯に便利、だとかそういう理由ではなくて、ただ単にそれが一番安かったからだ。
碁を打たない自分にとって、碁盤と碁石は高価なだけで、ただの置物に過ぎない。
自分の向かい側にしゃがみこんで佐為が碁盤を覗き込む。
その扇子が動くままに俺は平たいマグネットを置いた。
…オセロっぽい。
ルールは一通り聞いているから、それに則って自分もマグネットを置く。
パタ、と乾いた音がした。
「一人碁にしてはずいぶんと優劣があるんちゃう?」
隣に座っていた男が、まるで知り合いのように話しかけてくる。
人見知りしないやつだ。
「まぁ…白石はプロで黒石は初心者だから」
「何やそれ」
事実なのだが、その言い方が面白かったのか男は少しだけ笑った。
こうしてみると結構男前だ。
「自分、碁打つんか」
「いや…俺は打たないよ」
これも事実なのだが、相手は納得していない表情だ。
まあ、それも仕方ない。
俺の目の前で碁を打つ佐為は、俺以外には見えないのだから。
「…やる?」
首を傾げた俺に、男はすごい勢いでうなずいた。
そのしぐさはちょっと幼く見えて、サイと似ているなと思った。
碁盤の上を片付けて、黒石のほうを相手に渡す。
「俺が先手でいいんか?」
「言ったろ…白石がプロなんだよ。それとも素人相手がいい?」
「訳わからんやっちゃな」
あきれたような表情を浮かべた後、碁盤に向けられた目はひどく真剣で、よっぽど好きなんだなと思った。
次の瞬間ど真ん中に置かれた黒石に、なめてんのかこいつ、と考えを改めたけど。

初手天元は、自分の中でまだ完璧ではない。
まだまだ研究が必要だ。
だから、機会があれば試すことにしている。
先ほどの一人碁を見ている感じ、相手は下手ではない、という程度か。
白の手は、お手本のような感じだったが、黒はテンではちゃめちゃ。
おそらく白のほうが本当の実力だろうが、なんせ意図の読めない黒を相手にしていたから、よく分からない。
いきなり天元に置いた自分に、相手は何か言いたそうな目を向けたが、無言のまま二手目を打った。
特に動揺が見られないのには、少しだけ驚いた。
その後も特に長考する様子もなく石を並べていく。
あまり深く考えないタイプなのか? 
進藤とかもそうだが、あまり長考せずぽんぽんと調子よく打つタイプの人間がいる。
自分もどちらかといえばそのタイプだ。
でもそれとはまた違う、何か独特なリズムだと思った。
それにのせられたわけではないが、気がつけばやや劣勢。
小さな碁盤だから、ひっくり返すのは無理だ。
考える振りをして、ちらりと相手の顔を盗み見た。
ベンチの背もたれに頬杖を着いて伏目がちに碁盤に目をやる姿には、やる気は感じられない。
まるで、興味のないゲームを観戦している第三者のようだった。
再び碁盤に視線を戻す。
ひどく、きれいな碁を打つ男だ。
「自分、高校生?」
「そう、2年。そっちは?」
「…1年」
年上だったのか。
「……いま、年上だったのか、って思ったろ」
「…そんなことあらへん」
よっぽど顔に出ていたらしい。
「碁、習ってるんか? 院生?」
「いや…言ったろ? 俺は碁は打たないって。つか院生? ってなに?」
本気で知らないらしく、首をかしげている。
我流にしては筋がしっかりしている。
目の前で碁を打ったくせに、打たないという。
「あかん、分からん。自分これから時間ある? もっとちゃんとしたんで打たんと分からんわ」
こんな、お遊び程度の碁盤ではダメだ。
もっとちゃんとしたのでないと、相手の実力は本当には分からない。
相手は相変わらずどこか眠たげな表情で俺を見た。
「……俺は、暇といえば暇だけど、あんたこれから新幹線だろ?」
「……せやけど…俺そんなこと言うたか?」
すっと長い指が、俺の足元にある荷物を指差した。
「そんな荷物もって、東京駅行きのバスに乗るんだったら大方そんなとこだろ。あと安直に考えれば行き先は大阪とか?」
…安直で悪かったな。
言い当てられたとおり、これから新幹線で大阪に帰るところだ。
「ついでに言うと、バス来たから」
荷物をさしていた指が、そのまま俺の後ろのほうをさす。
振り返るよりも早く、俺たちしかいないバス停にバスが停車した。
「俺は次のだから。新幹線乗り遅れたらヤバイだろ?」
そこで初めて笑みを浮かべた男と、バスの運転手にせかされて後ろ髪を引かれながらもバスに乗り込む。
ぷらぷらと手をふる男に肝心のことを聞いていないことに気づき、窓から顔を出した。
「俺、社清春!自分は!?」
走り出すバスの音。
その中に、確かに「河野雅仁」と男の声が聞こえた。