陽炎-21-

小さな球を包むように両手をあわせる。その中でくるくるとオーラを動かした。
念のコントロールに慣れているせいか思いのほかあっけなく出来てしまい、これでいいのかとちょっとだけ首をひねる。
まあ、要は流なんだよね、これって。
膝の上に乗せた夜一はじっと尚樹の手の平を見つめていたが、もちろん見えるはずもなく途中で断念した。
「出来そうなのか?」
「うーん、どうだろ。これをもっと早く不規則に動かさないと駄目なんだと思うけど……」
でも、忍術よりは出来そうだ。オーラの動きを速くすると、チリッと手の平に痛みが走る。見れば、細かなかすり傷がついていた。
「ああ、そうか」
そりゃあ、それなりに破壊力のある技なんだから、自分だけ傷つかないという理由はないだろう。つまり、手の平も念でちゃんとガードしておかなければならないわけだ。なんかこれ、ゴンとキルアがGIでドッヂボールしてたときに似たようなことなかったっけ。
「そう考えると、結構難しいのか?」
「両手を合わせてるのがいけないんじゃないか? 片手でやってただろう、自来也は」
「そーなのかな」
つい、ナルトを意識して両手を使っていただけなのだが、分身の術が出来ないので実はあまり意味はない。
アドバイスに素直にしたがって両手を上に向けた。くるくると回りだしたオーラが空気を巻き込んで少しだけ前髪を揺らした。
「お、いいかんじ」
手の平に一つずつ、二つできた螺旋丸をじっと見つめながらこの二つをぶつけたらどうなるんだろうというどうしようもない好奇心がわいてくる。
「逆回転にしてれば、相殺出来たりすると思う?」
「まず間違いなく大惨事になるから、やめとけ」


目の前にかかげられたその白い粉に、カカシは首を傾げた。さすがに見ただけでは何の薬か分からない。においをかいでも何も感じられず軽く口に含んでみると強烈な苦みが舌を刺激したが、医療忍者ではないカカシには何の薬か分からなかった。
一瞬強いめまいを感じて頭を振る。
これをもって来た張本人、ゲンマは短く睡眠薬、と言った。
「かなり少量で効く即効性の睡眠薬です。一さじで致死量」
「……で、その物騒な薬をなんで俺に?」
「どこぞの犬っコロを大人しくしてベッドに縛り付けるためです」
元はと言えばあなたが悪いんですから、責任もって一服盛ってきて下さい、とひどく軽い調子で手の平におかれる。
「……なんか物騒な言葉が聞こえた気がするんだが」
「平気ですよ。コーヒーにでも混ぜれば致死量に至る前に昏睡します」
いろいろと文句を言われる覚悟はしていたが、まさかこうくるとは。
警戒心の薄い尚樹に一服盛るのはそう難しいことではない。ゲンマの言うようにコーヒーにでも混ぜれば一発だろう。
しかし口に含んだだけのカカシでもめまいを感じたほどの薬だ。本当に大丈夫なのか? とそれを見つめる。だいたい、うまく一服盛ったとして病院に連れ戻したところで、尚樹がまた脱走しないなんて思えない。イタチごっこでは。
「あなたが連れ出したりしなきゃ平気ですよ」
考えが顔に出ていたのか、適切すぎる突っ込みを入れたゲンマにぐうの音も出ない。
「ぐだぐだ言ってないで、さっさとして下さい。腕、本当に動かなくなりますよ」
忍びとして復帰するのは無理だと、医者にはっきり言われていた。ただ、治療とリハビリ次第で日常生活に支障が出ない程度には回復出来るかもしれない、と言われたのは記憶に新しい。
出来るだけ回復させてやりたいとはカカシも思う。だが、尚樹に治療を受ける意志がない以上、これ以上の回復は望めないのではないかとも思っていた。
「早くしましょう。あまりここで長く話していると、不審に思われます」
ここ、というのはカカシの家のまさに玄関先だ。この位置ならば当然尚樹の気配探知内だろう。さすがに話までは聞こえていないと思うが、あまりじっとしていれば不審に思われるのは必至だ。
しぶしぶとカカシはドアを押した。いつも通り奥から顔を出した尚樹が「お帰りなさい」と声を上げた。近づいて迎えようとする尚樹を手で制す。
頼むから、お前はあまり動いてくれるな。
ゲンマに先に奥へ行くよう目で促して台所へ足を運ぶ。かなり気が重いが、ゲンマの言った通りコーヒーを入れようと食器棚に手をかけたところで、音もなくひょこっと顔を見せた尚樹に心臓が一つはねた。
足止めしてるんじゃなかったのか、とあとから顔をのぞかせたゲンマに恨めしげな視線をおくる。こら、目をそらすな。
「お茶なら俺が入れますよ?」
「いいよ、腕、怪我してるでしょ」
「平気なんですよ? 緑茶でいいですか?」
「いや、出来ればコーヒー」
ゲンマの主張に、了解です、と返事をして手際良く片手で準備を始めた尚樹に、いつ薬を盛ろう、とカカシは遠い目をした。
ゲンマは特に気にしていないのか、砂糖の入った瓶をひょいっと取り上げて居間へと移動しソファに腰を下ろした。
「……まさかそれに」
「他にないでしょう」
もうその砂糖は使えないな、とため息をつきながら隠し持っていた薬をその中に流し込んだ。
ものすごい罪悪感に苛まれた気がしたが、きっと気のせいだろう。
台所から漂ってくるコーヒーの香りに、少し緊張した。
あの腕でコーヒーを運ばせるのは一抹の不安を感じるので、いつものようにおぼんを受け取りに台所へ戻る。わざわざカカシの前で3人分を注ぎ分けた尚樹に、苦笑を浮かべそうになる。無意識なのだろうが、毒を盛っていないという証明がわりのこの行動も今となっては意味がない。
どうしようもない裏切り行為だと、手にかかる重みが訴えていた。
「急ですね、ゲンマさん」
「ん、ああ……まあ、お説教ってやつだよ」
「カカシ先生、何か悪いことしたんですか?」
「いや、俺じゃなくて」
お前がね、と続けようとして自分もしっかりしぼられたことを思い出した。どうにも情けない。
テーブルに並べたカップをとってためらいもなくゲンマが口を付ける。もちろんノンシュガー。カカシも自分のカップを引き寄せた。
尚樹はと言えば、わざとかと言いたくなるくらい計算通りの行動で、テーブルの上の砂糖に手を伸ばす。一杯入れてミルクまで投入した尚樹はしばらく冷めるのを待つようにカップに両手で触れた。
いつも通りの行動だが、今日に限ってはひどく緩慢な動作に見える。罪悪感からくる幻聴だと思うが、白状するなら今のうちだと促されているような気すらする。
「尚樹、今日はちゃんと大人しくしてた?」
「はい。偶然自来也様と会えたので、温泉に連れて行ってもらいました」
「うん、つまり大人しくしてなかったんだね?」
「大人しくしてたんですよ?」
カカシの言っていることが分からないのか、本気で大人しくしていたつもりらしい尚樹が小首をかしげる。どうすれば、怪我をしたばかりで外を歩き回ることが大人しくないことだと分かってもらえるのか。
温泉は大人しく、じゃなくてのんびりの間違いだ。
どうにも噛み合ない会話を端で聞いていたゲンマは、独りため息をついた。駄目だ、これは。
コーヒーを口に運ぶ。人は無意識に相手の行動をトレースする習性がある。カップをテーブルに戻す音。それにつられるように尚樹がようやくコーヒーに口を付けた。
瞬間、眉間にしわを寄せた尚樹に、バレたか、と二人の間に緊張が走る。しかしそれは杞憂だったようで、尚樹の腕が再び砂糖へと伸びた。またひとさじ入れてかき混ぜる。
致死量×2、とカカシはコーヒーから目をそらした。
コーヒーを一口含んだ尚樹がさらに眉根を寄せる。「このコーヒー苦くないですか?」と首を傾げる尚樹に、カカシとゲンマはそろって首を横に振った。
それに納得がいかないのか、少し考え込むように黒い水面を見つめていた尚樹の視線がするりと移動して白い粉へと当てられる。
表情こそ変えなかったが、この瞬間二人は作戦の失敗を悟った。
砂糖を引き寄せる小さな手。その手が睡眠薬まじりの砂糖をひとさじすくって、止める間もなくぱくりと口の中に運ぶ。
流石のゲンマもこれには言葉を失った。今のは確実にアウトだ。致死量的な意味で。
付き合いの長さの違いか、硬直から先に解けたのはカカシの方だった。
「尚樹……! 吐き出せ!」
「う……五臓六腑に染み渡る苦さですね、これ。いったい何入れたんですか」
口の中を洗い流すようにコーヒーを飲み干した尚樹に、焦燥感にも似た落ち着かなさが腹の辺りに渦巻く。そんなカカシとは対照的に尚樹は顔をすがめるだけで砂糖の瓶を取り上げた。
「もー、ゲンマさんでしょう。お砂糖粗末にしちゃ駄目なんですよ?」
使えないじゃないですか、これ、とちょっと怒ったように言って取り替えにいく尚樹の背中を見送って、カカシとゲンマは顔を合わせた。
「……致死量」
「とっくに超えてるはずなんですけどね」
どこか疲れたように頬杖をついてため息をついたゲンマに胡乱なまなざしを向ける。それに「嘘じゃないですよ」とゲンマは言葉を返した。
何がなんだか分からないまま、妙に胸騒ぎがするのでカカシは立ち上がって台所へ足を向けた。
予備の砂糖は上の戸棚にある。だから、背伸びをしても尚樹には届かないのだ。
その結果何をしているかというと、イスの上にさらに踏み台をのせて背伸びをしているわけで、そのあまりにも奇跡的なバランス感覚にカカシはめまいがした。
「……尚樹、とってあげるから降りなさい」
あぶないでしょ、と続けようとしたカカシの目の前で、振り返った尚樹はお約束かと言いたくなるくらい見事にバランスを崩して背中から落ちる。
まるでスローモーションのように尚樹の髪が揺れて、とっさに左腕が体をかばおうと床へ突き出されるのがはっきりと見えた。
考えるより先に手が出て、尚樹と床の間にカカシの両腕が間に合う。その瞬間に、まるで重力を思い出したように世界にスピードが戻ってきて、でもその瞬間両腕にかかるはずだった重みは、いつまでたってもやってこなかった。