逃げ水-1-

指一つ動かせないほどの疲労感が体全体を支配していた。
尚樹は、不快と言うよりはむしろ心地よいそれにあっさりと身を委ね、より深い眠りへと落ちていった。



降りしきる雨のなかにそれはあった。
緑色の柔らかな地面の上、うつ伏せになった小さな体。露出している腕や足は、子供独特の丸みをおびている。
カカシはしばらくそれを眺めたあと、どうしたもんかとため息をついた。
森のなかに倒れた子供。所持品らしいものは特に見当たらない。
普通の人間なら何のためらいもなく子供を助けるだろうが、カカシはその子供をじっと観察した。
ここは隠れ里だ。よそ者が、まして普通の子供がやすやすと入れる場所ではない。
いつだって警戒を怠ってはならない。
軽く体を触って暗器の類いを隠し持ってないか調べる。
別に特に意識してやった行動ではないが、背中の腰のあたりに固い感触。
上着をめくると、革の鞘に納められた短剣。
おやおや、と見つけたそれを腰から外し、一緒に腰についていたシザーバッグのなかを漁る。
まず出てきたのは花切りばさみで、カカシはいささか面食らった。
その他ペーパーカッターに普通のはさみ。
暗器にしてはいささかまぬけだ。
まぁ、その気になれば人も殺せるだろうが。
一番武器らしいナイフを鞘からぬいた。その形状に目を見張る。
見たこともない形だが、ひどく禍々しい。
とりあえず、警戒すべき対象だろう。
気はすすまないが、仕方ない。
カカシはぐったりと力のないからだを抱えあげる。
にゃあ、と雨音にまぎれて猫の鳴き声がした。


白いベッドに寝かされた子供は、身動ぎひとつしない。
雨にうたれ血の気を失っていたほおはわずかに赤みをさし、それだけが子供の回復を物語っていた。
あのあと、子供を医療班に任せ、しっかり見張りまでつけたカカシは火影のもとへと向かった。
子供の様子を報告したカカシに、本人の目が覚めてから、と火影は判断を先延ばしにした。
それから丸1日。
そろそろ目も覚める頃だろうと、カカシは子供のもとを訪れた。
子供の枕元には黒い猫。子供の飼い猫なのか、森からずっとついてきて、子供のそばを離れない。
その首もとを無造作につかんで持ち上げる。
猫は恨めしげにカカシを見るだけで、鳴き声をあげることはなかった。
そのまま部屋のそとに放り出す。
ぴしゃりと戸を閉めて再びベッドの脇に立った。
おそらくあの猫は戸のそとに座って誰かが入れてくれるのをじっと待っているのだろう。
戸越しに視線を感じるような気さえする。
すでにカカシと猫の間でそのやりとりは数度繰り返されていた。
ガラッと背後で戸を引く音。
気だるげに振り返れば、猫をだいたマイト・ガイがいた。
猫はどこか勝ち誇ったような表情だ。
カカシが病室から猫を追い出しても、戸の前でけなげに座っている猫に皆が同情してしまうのだ。
「結構な役者だこと」
「? なにがだ?」
「いや…それより猫、中に入れないでよね」
「別にいいじゃないか。可哀想だろう?」
まぁ彼ならそう言うだろうと思ったけど。
とにかく、外に出しといて、というカカシの言葉に顔をしかめつつもガイが頷いた。
それを見届けて視線を子供に戻すと、ぱっちりと開かれた瞳と目があった。
いつのまに…。
内心で舌打ちしつつも、表情は変化させない。
「気がついた?」
カカシの言葉に子供がぱちくりとまばたきをする。
演技には思えないが、果たしてどうだか。
表情や息づかい、体の動き。どれも相手の嘘を見抜く重要な要素だ。
それらを見落とさぬよう、カカシはさりげなく子供を観察した。
ふと子供の手がカカシの顔へと伸びる。
その指先が左目を覆う額あてに触れる寸前に、カカシはその華奢な腕を掴んだ。
「何者だ」
子供の手はたしかに自分の写輪眼へと伸びていた。
カカシの警戒心が一気にふくれあがる。
そんなカカシに気づいているのかいないのか、子供は小首をかしげて「水沢尚樹です」と的外れな返答をよこした。