見えざる手

目の前にある炊きたての白米を、さてどうしたものかと尚樹は見つめた。
周りでは他の受験生達が戸惑うように調理台の上にあるものを触っている。
そして、皆が一斉に魚を捕りに会場を飛び出していくのは数分後の事だ。


人っ子一人いなくなった試験会場内で、ぽつんと尚樹だけがたたずんでいた。
まだあたたかいご飯をつまみ食いする。
調味料は酢、砂糖、塩。これはすし酢も自分で作れってことかな? と近くにあった計量カップに目分量でそれを入れた。
スプーンで軽く混ぜて味見。うん、おいしい。
以前母親にすし酢の作り方を習ったときの彼女の名言を、尚樹は鮮明に覚えている。それ以降、料理というものに正確性を求めなくなったのだ。
その彼女の名言というのが、なめてみておいしかったら作り方間違ってないから大丈夫。
あの瞬間、母親がとても偉大に見えた。
作ったすし酢を豪快にご飯にかけてしゃもじでかき混ぜる。ときおり味見と言う名のつまみ食いをして、懐かしいその味を楽しんだ。
「のりは……一応あるのか。具材はさすがにないよね」
そこは自分で調達しろ、という事なのだろう。しかしそこは抜かりない。
元々試験内容を熟知していた尚樹は備えあれば憂い無し、という事でいろいろ準備してきたのだ。
腰に下げていたシザーバッグから何か小さなものを探し出す。手のひらに収まるくらい小さいそれには、混ぜるだけで出来るちらし寿司! と書かれていた。
懐中電灯らしきものを手の中に具現化、光を当てるとそれはみるみるもとの大きさに戻る。
「混ぜるだけって言うのはありがたいよね」
粉末のすし酢だけ避けて具の入った袋をあける尚樹に、なんでそんなものまで持ってきてるんだと夜一はあきれるしかなかった。
手早く混ぜて食べやすいようおにぎりにし、のりを巻いて出来上がりだ。
「ひとくち」
「えー……体に悪いと思うんだけど……ちょっとだけだからね?」
興味津々でフードの中から顔を出した夜一に、尚樹は少しだけそのちらし寿司を差し出した。

ようやく受験生達が戻ってくる足音がする。
尚樹は残りのご飯もすべておにぎりにして皿にのせた。
二つほどラップにくるんでスモールライトで小さくしバッグにしまう。これで今日の夕飯はばっちりだ。
鼻歌まじりに片付けをはじめた尚樹のもとにゴン達が何とも言えない魚を持って戻ってきた。
毒とかないのかなあとその鮮やかな魚達を見つめる。
というかみんな、自分が食べるわけじゃないからってきわどい魚を持ってきすぎだと思う。それとも、この世界ではああいう魚が普通なのか。
いや、やっぱりないな。
「あれ、尚樹はもう出来たの?」
「うん。にぎり寿司じゃないけどね」
尚樹の返事に、ゴンは何を言っているのか分からないと首を傾げた。まあ無理もない。
尚樹としては、この試験誰も合格しない事が分かっているので、無駄なあがきはしない事にしたのだ。だいたい、試験自体が無効になるのだから、握れないすしを握る意味もない。
「ま、これあげるからがんばって」
作ったばかりのおにぎりをゴンに渡すと、キルアから熱い視線を感じたので彼にも一つ渡しておく。
レオリオとクラピカはなんだか鬼気迫る勢いで集中していたのでそっとしておく事にした。
みんな寿司について試行錯誤しているせいか尚樹に気をとめるものはいない。
人のひしめくその場所からそっと離れた尚樹は、すっと円を展開して目的の人物を捜した。
会場が見える位置にいるはずなので、そう遠くはないはず。
予想通り、すぐ近くの木の上にその気配を見つけ、今度は目でその姿を探した。
「……こんにちは」
「こんにちは。……何か御用ですか?」
「まあ、大した用じゃないんですけど、おにぎり食べませんか?」
すっと皿を差し出した尚樹に、サトツは数秒考えた。おにぎりって何? とか毒でも入ってるのか? とか2次試験の試験官は自分じゃないとか。
とりあえず、
「試験はいいのですか?」
「大丈夫ですよ」
とんっ、と軽く跳躍して木の枝に飛び乗った少年はどうぞ、と皿を差し出してきた。反射的に一つ受け取る。
サトツに習って腰を下ろした少年は自分も一つ手に取り頬張った。
その様子から、まあ毒は入っていないだろうと結論し、大人しく自分もそれを頬張った。
「……食べた事のない味ですね」
「まあ、そうでしょう。どうやらここでは寿司は一般的じゃないようですからね」
「……その言い方からすると、これは寿司ですか?」
「ええ。まあこれはちらし寿司といってにぎりとはまた別ですけど」
「その言い方だと、にぎり寿司が何か知っているのですか?」
「ええ、食べた事もありますよ。まあどれもメンチさんを満足させられるものかどうかは怪しいですが」
そう言って笑った顔は、ひどく大人びていてなんだか違和感を覚えた。
試験会場からはときおりメンチの怒鳴り声が聞こえてくる。
あまりはっきりとは聞こえないが、どうも状況は芳しくないようだ。
「あなたは、行かなくていいのですか?」
「行く必要はないですよ」
はっきりとそう言った彼に、サトツは試験会場へと向けていた視線を戻した。
そのあまりにも断定的な言い方に、妙なものを感じる。まるで、行っても受からない、という意味ではなく、行かなくても落ちない、と言っているかのようだ。
「……どうして、行く必要がないんですか?」
サトツの質問に、食べていたおにぎりを嚥下してから少年はゆっくりと口を開く。
指先についたご飯粒を舌でなめとりながら、悪戯をしたときの子供のように口元に不敵な笑みを浮かべて言った。
「この試験は、無効になるからです」
それは、占いや予言と言った曖昧さをかけらも持ち合わせていない響きを持っていた。