その深い緑はこの目には痛いくらいで

日本は実にその土地の7割が森林だという。
でもこんなにうっそうとしてはいないはずだろう? 
明らかに日本のものではない植物達に目を留めて尚樹は呆然とした。
ここはどこ? なんていうお決まりの台詞もでてこないほどに絶賛混乱中だ。
俺風邪引いてるのに…と訳の分からない恨み言をいいながら現状を把握しようとあたりを見渡す。結論、ジャングル。俺裸足。
そういえば風邪で寝込んでいたんだったと自分のパジャマ姿を見下ろして思い出す。もともと少し大きめのパジャマが少しどころかかなり大きいのはパジャマがでかくなったせいだと信じたい。
大きくなった(と尚樹は信じている)パジャマの裾からわずかにのぞく白い足が18歳の尚樹には不似合いな少年のものであるにもかかわらず、これ以上の超常現象はごめんとばかりに無視を決めこむ。
とりあえずここにぼんやり突っ立っていても仕方ないと足を一歩踏み出した。足の裏に草と土の感触。
「痛い…」
現代人の尚樹に裸足はつらい。我慢して進むもすぐに葉で皮膚を切ってしまう。たいしてひどいものでもないがこの手の傷は地味に痛い。早くも挫けそうだった。というか挫けた。
本当は日が暮れる前にどこか人里に出たかったのだが、この鬱蒼とした森からそうそう出られるとも思えないし方向だってあっているか分からない。足は痛い。
尚樹はもう諦めて出来るだけ足を切らないようにゆっくりと歩くことにした。
心の中では短い人生だったなぁと早くも投げやり。
見知らぬ植物に目をやりながらもどこかグロテスクなそれは見ていて楽しいものではないし、目的もなくぶらぶら歩くという退屈を紛らわしてくれるわけでもない。
MDでも持って来ればよかったと自分でここに来たわけでもないのに尚樹は思った。どこか現実味のない現状、下手すると生存も危うい状況に尚樹は早くも飽きていた。それとともに先ほどまで混乱によって吹き飛んでいた風邪が戻ってきたような気がする。
風邪独特のだるさが遅い足取りをさらに遅くした。
もう良いかなぁと自分の口から最終宣告まで出す始末。生活に疲れた主婦のような空気を漂わせながら再び切ってしまった足を止める。
よし、ここは誰か通りかかるのをおとなしく待とうと他力本願で確率の低い希望のもとに適当な木の根元に腰を下ろす。
歩き始めてまだ20分も経っていない。それで良いのか水沢尚樹。
そのままぼんやりと座り込むこと数時間。奇跡的確率のもとに尚樹の他力本願がかなうことになる。
そう、人が足を踏み入れそうにないジャングルに人が通りがかったのだ。こんな人里はなれたところで通るはずもない人を待つ尚樹も尚樹だが、通りがかる人間がいることにも驚きである。
通りがかった方もまさか人が居るとは思わなかったのだろう、目を見開いて尚樹を凝視している。
壮年のなかなか渋い男性は溜息をひとつついたあと、ここで何をしていると至極もっともなことを言った。

「迷子です」
と尚樹は自分の今の状況をもっとも的確に表していると思われる言葉を堂々とはなつ。でも正確にはおそらく遭難だ。
何をどうやったらこんなジャングルにパジャマ姿で迷子になるというのか、というのが通行人Aの心境。
おいおいこの人日本語しゃべってるよもしかしてここ日本? というのが尚樹の心境。
こんな鬱蒼とした森、もといジャングルを1人で歩き回る人物なんて日本ではごく少数しか尚樹には思いつかない。
「山守の方ですか? 出来れば麓まで連れて行って欲しいんですけど」
ついでに出来れば交番まで送り届けて欲しい。
彼を逃したらさすがにもうここを通りかかる奇特な人間なんて居ないということに尚樹でも気付いたのか、ここぞとばかりに言ってみる。
「どこをどうやったら山守に見える。まったく…面倒だな」
確かに、普通に街中で見かけそうなシャツにズボンと何の変哲もない格好の通行人A。とても山守には見えない。しかし、だからこそ異常なのだが。
「そう言わずに。このまま置いていかれたらここでのたれ死んでしまいます」
困ったように頭をかいた通行人Aの様子を気にする風もなく、連れて行ってもらう気満々で尚樹は重い腰を上げる。
尚樹のところどころ傷ついたむき出しの足を見て通行人Aは諦めたように溜息を一つ。
次の瞬間には尚樹を軽々と抱き上げた。
尚樹とて多少細身といえど健康な男子高校生。まさかこうも簡単に抱き上げられるとも思わず身体を硬直させる。
そもそも思春期の男の子を幼子よろしく抱っこするって人としてどうなんですかと思わなくもないが、裸足でまたもこのジャングルを歩きたくない尚樹は懸命にもそれを口に出したりはしなかった。ただ単に横着者とも言うが。
「とばすぞ、しっかりつかまってろ」
とばすって何を? と聞く間もなく通行人Aが地面を蹴る。ものすごい勢いで流れていく景色に彼はアンドロイドかも知れないと尚樹はくだらないことを考えて、視界一面に広がっては過ぎていく痛いほどの緑にそれ以上の思考をシャットダウンさせた。状況を理解するにはキャパシティオーバ。思考放棄、ついで離脱。
視界は意図的に暗転した。次に目を覚ますときは街中だといいなぁ、と自分の部屋で目が覚めるという夢オチを期待しないあたりに尚樹の混乱ぶりがうかがえる。
そして腕の中で意識を失っていささか重みを増した子供に通行人Aは都合3度目の溜息をついた。



尚樹は今日も変わりなく自分の目の前に置かれる緑色の汁を憎憎しげに見つめた。
彼にとってそれはここ5年ほど繰り返される日常の一場面だったが、馴染むことはない。むしろそれを憎憎しげに見つめるところまでもが日常の一場面に組み込まれている。
「そんなに見つめたって味は変わらんぞ」
ついでに量も変わらんとこちらに背を向けた形でキッチンに立つ壮年の男性は言った。もちろんこれもいつものこと。ついでに言うとその後しぶしぶながらもそれを尚樹が飲み干すのもいつものこと。
まるで何かの儀式のよう。
「ご馳走様。店番してきます」
もっとも味の濃い沈殿物たっぷりの下の方をいつもどおりさりげなく残して尚樹が席を立てば、もはや諦めたというような仕草で壮年の男性が尚樹の前に置かれたからのグラスを下げる。
彼こそが、5年前どういうわけかあの鬱蒼としたジャングルで迷子になった尚樹を助けた通行人A。名称ゼタ。
彼が尚樹を拾ってから引き取るまで色々と紆余曲折があったわけだが、話し出すと長くなる(かもしれない)ので今は脇に置いておく。
ついでに余談だが、尚樹が初めに無視を決め込んだあげく記憶の彼方に追いやったパジャマの件は、当然と言うかなんというか、縮んだのはパジャマの方ではなかったということで決着がついた。
「変な客が来たら逃げるか大声上げるかしなさい」
「…ゼタさん…それって仕事にならないんじゃ…」
表向き普通の花屋なんてものを開いちゃっているわけだが、裏の仕事もしているゼタのところには時折普通ではない人も訪ねてくる。それでいちいち悲鳴を上げていたりしたら閑古鳥が鳴いてしまうだろう。
尚樹はこの壮年の渋めのオジサマが花屋を営んでいると分かった時には心の中で盛大に笑ったものだが、そのかわいらしい花屋にちょっと怖げなオニーサンが訪ねてきたときには笑死するのではないかと思ったくらい腹筋が大活躍した。
もちろん、本人の前では笑わなかったが。
5年前は閑古鳥が鳴いていた本業(花屋)は、尚樹が店番をするようになってから近所のオネーサンやオクサマ方に人気が出てそれなりに盛況。オジーチャンやオバーチャンがよくお菓子をくれたりする。
実際年齢18+5歳の尚樹には少し悲しいものがあったが、まぁそれなりに平和ということで。
「まったくお前はいつになったらこれに慣れるようになるんだろうな」
いつもどおりちゃっかり残された緑色の汁を洗い流しながらゼタが呟けば、
「んー…そうだなー、緑のくせに青汁なんていうそのけったいな名称が世界から絶滅した頃かな?」
「尚樹…」
暗に一生好きにならないと超絶笑顔で返してくる尚樹に壮年の男性は乾いた笑いをもらした。


オチをつけたい詩的な色の5題
3)その深い緑はこの目には痛いくらいで
…………緑のくせに青汁なんて。
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